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		<title>下関の弁護士　白石資朗法律事務所</title>
		<link>http://shiraishilo.com/</link>
		<description>下関の弁護士　白石資朗法律事務所です。</description>
		<language>ja</language>
		<pubDate>Tue, 31 Jan 2023 22:21:30 +0900</pubDate>
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			<title>法律扶助について</title>
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			<description><![CDATA[
　法律扶助とは、資力の乏しい方が弁護士を依頼できるよう、国が弁護士費用の立て替えをする制度です。　この制度は、もともとは弁護士会が運営する「法律扶助協会」で行っていた事業ですが、平成１８年から「日本司法支援センター」（法テラス）が設立され国が運営することとなりました。　当事務所では、日本司法支援センター（法テラス）との民事法律扶助契約を解約いたしましたので、法律扶助は利用できません。＊　現在、受任中の事件については、そのまま法テラスの法律扶助事件として継続します。＊　刑事事件（国選弁護）については引き続き担当します。（解約の理由について興味のある方はお読み下さい）　法律扶助は、もともとは弁護士会が運営する「法律扶助協会」で行っていました。この時代は、主に弁護士が出し合ったお金で運営しており十分な財源もありませんでしたから、法律扶助事件の報酬は一般的な報酬基準に比べて低く抑えられていました。受任する弁護士としても、自分たちで出し合ったお金で、また自分たちで報酬基準を定めて運営していましたから、法律扶助事件の報酬についても納得していました。　現在は、国が法律扶助を運営していますが、税金で運営しているにも関わらず、報酬は法律扶助協会の時代と変わりません。このことは、国が弁護士業務の経済的価値を正当に評価していないことを意味し、職業的な自尊心に対する配慮の不足を意味しています（このことは「司法改革」全般にあてはまることだと思っています）。同時に、我が国の司法予算の貧しさを象徴しており、国は、国民の裁判を受ける権利を保障する責務を十分に果たしていないことを意味しています。余談になりますが、現在「裁判の Ｉ Ｔ 化」が進行していますが、その議論においても、国は企業の利便性に注目し、国民個々人の裁判を受ける権利については関心が低いように感じます。　このようななかで、２０２０年、日弁連執行部は、法テラスの本質的な問題点が改善されていないにも関わらず、コロナウイルス禍を理由として、資力のある方にも法律扶助を適用するという法改正の働きかけをしました。コロナウイルス禍が重大な問題であることは確かですが、そのことと資力のある方に法律扶助を適用することとは全くの別問題であると、私は考えます。　以上の経緯を踏まえて熟慮した結果、私は、２０２１年３月５日、日本司法支援センターとの民事法律扶助契約を解約しました。　もっとも、私は法律扶助協会の時代から法律扶助を支えてきたという自負がありますから、上述した法テラスの本質的な問題点に改善の兆しがみえれば、再契約することにやぶさかではありません。
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			<pubDate>Sat, 6 Mar 2021 10:43:43 +0900</pubDate>
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			<title>白石正一郎日記現代語訳（奇兵隊編）</title>
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			<description><![CDATA[
文久３年　６月　１日　　昼過ぎに世子君様が裏門からバッテラにお乗り込みになった。およそ５，６丁お　　　　　　　　出でのところ、東の沖から外国船が海峡に入ってきたために相図の大砲で砲撃し　　　　　　　　すぐさま引き返されて浜門からお入りあそばされた。さて、頻りに砲撃の音が聞　　　　　　　　こえ、廉作、庫之進が出陣した。私は、若殿様がおられるため、家にとどまっ　　　　　　　　た。外国船は、おもに壬戌丸を的として砲撃した。世子様がお乗りになる船だ　　　　　　　　と知ってのことか、壬戌丸に弾丸が多くあたった。また、庚辰丸、癸亥丸にも弾　　　　　　　　丸が多くあたり、ついに、壬戌丸のドウコが打ち破られ、煮え湯による即死者が　　　　　　　　４人。伊崎の利吉と申す者は水先案内を勤めていたところ、弾丸にあたって即死　　　　　　　　した。　　　　　　　　　さて、若殿様がお引き返しになった後、すぐに徒歩にて伊崎の日寄山へお登　　　　　　　　りになり、外国船の様子を御覧あそばされ、夕方、ご帰還あそばされた。中山卿　　　　　　　　も当家にお出でになり、突然、御上京の御議論になった。前田御茶屋へ滞在して　　　　　　　　いる者たち５，６０人がお供するとのことである。　　　　　　　　　中山卿からも、若殿様からも、いろいろと頂戴物があった。　　　　　　　　＊　外国船はアメリカ船のワイオミング号。「さきに砲撃されたベンブローク号　　　　　　　　　の復讐のためにやってきた」「（壬戌丸は）船上に旗幟を立て、定紋の紫幕を　　　　　　　　　はっていたので目標にされた」「ワイオミング号はちょうど南北戦争中の北軍　　　　　　　　　の軍艦で、南軍の軍艦アラバマ号を追って横浜まで来たがベンブローク号のこ　　　　　　　　　とを聞き、下関をめざしてやってきた」（「幕末の豪商志士　白石正一郎」中　　　　　　　　　原雅夫）　　　　　　　　＊　「この日、姉小路公知の死が知らされた」（「幕末の豪商志士　白石正一　　　　　　　　　郎」中原雅夫）　あわただしく上京の議論になったのは、そのため。　　６月　２日　　若殿様が駕籠でご出発になった。今日から前田台場を築き上げるためのご加勢　　　　　　　　　として廉作と庫之進が進発頭とされた。竹崎の者を２，３０人召し連れて、白　　　　　　　　　木綿の小幟に「報国尽忠一番竹崎」と書き付け、太鼓を打ち、出勤するので、　　　　　　　　　おいおい、新地や伊崎、今浦近辺からも人数が加わってきた。　　　　　　　　　　さて、今日の昼過ぎに、宮城から申し聞かされ、大庭を呼びに遣いをやっ　　　　　　　　　た。これは、昨日の軍が、壬戌丸をめがけて砲撃したことについて、幕吏が乗　　　　　　　　　り込んでいたようで、下関にも３人ほど滞在していたとのことである。状況が　　　　　　　　　落ち着いたら内分取り調べることなどがあるようだ。　　６月　３日　　昼過ぎ、久留米藩の真木外記、原道太、荒巻羊三郎、坂井伝二郎、滝弥太郎、　　　　　　　　　赤根幹之丞が連れだって来た。久留米藩の４人と滝は夜も昼も歩き通し、宿の　　　　　　　　　駕籠にて上京する。今日、大庭よりからの知らせで、明日、長府公より私へ四　　　　　　　　　つ時にご用があると申し伝えられた。　　　　　　　　　＊　赤根幹之丞は、赤根武人。のちの奇兵隊総督。　　６月　４日　　長府へ罷り出たところ、生涯三人扶持の俸給を下された。書き付けは原田より　　　　　　　　　渡された。　　６月　５日　　外国船が、上方から２艘、海峡に入ってきた。フランス船とのことである。八　　　　　　　　　軒屋の台場へ行って見たところ、アメガクボに繋船している。長府と前田台場　　　　　　　　　へ向けて大砲で砲撃し、追々、大軍になった。前田台場の大砲は破壊され、外　　　　　　　　　国人はバッテラで前田に上陸し、人家を焼き尽くした。そのほか、大騒動に　　　　　　　　　なった。昼七つ時に少しの間、帰宅し、尊大人、母、峯太郎などが一の宮へ移　　　　　　　　　り住むように取り計らい、荷物も必要なものを少々、送った。　　６月　　６日　宮城が下関を出た。途中、何者かが斬りかかってきたとのことである。幕吏で　　　　　　　　　あろうという。夕方、久留米より土屋矢之介が下関へ帰ってきた。久留米藩の　　　　　　　　　２０人ばかりが上京した。今夜遅く、萩から高杉晋作が下関へ来て宿泊した。　　６月　　８日　　高杉が、当家にて奇兵隊を立ち上げた。正一郎、廉作、井石綱右衛門、山本　　　　　　　　　孝兵衛などが入隊した。　　　　　　　　　　　昼、高杉が其外船で台場を見分した。萩のお役人より、中山卿が滞在した　　　　　　　　　ご挨拶として６０両を頂戴した。薩摩より問い合わせとして重野厚之丞、川治　　　　　　　　　正之進の両人が到着し、酒屋の２階で高杉と対面した。両人は今夜大里まで　　　　　　　　　帰った。　　６月　　９日　　昼前、関の田中にて、山田志摩を捕まえてきて、当家にて取調べがあった。　　　　　　　　　　　また、長府領の虚無僧ひとりと、大塚柳斎、尾崎禎助なども同様であった　　　　　　　　　　が、問題なく釈放された。長崎の者ひとりが御手洗屋に居候していたのが捕　　　　　　　　　　まった。今夜は、目明かしの預かりとなったようだ。今日、芸州の穂神輝門　　　　　　　　　　という者が来た。赤根が応対し、久留米藩の渕上、池尻茂四郎、山本実、　　　　　　　　　　松浦八郎、木原貞亮等が、すぐさま上京した。山田志摩は、今夜、斬られ　　　　　　　　　　るところであったが、しばらくの間、救われることになった。。　　６月　１０日　　今日までに、奇兵隊士はおよそ６０余人となった。　　６月　１１日　　長府へ、先日のお礼を申し上げに参るための支度中、突然、大砲を積ん　　　　　　　　　　だ外国船が来た。すぐさま、奇兵隊が出動した。長府の手前、浜の方、百　　　　　　　　　　町の浜辺に潜んで待機した。八つ時、外国船は出帆し、上方に行った。戦　　　　　　　　　　争にはならなかった。イギリス船であった。　　６月　　１２日　長府へ行き、お役人の家へお礼した。　　６月　　１３日　奇兵隊の連中は、今日、この方を引き払い、残らず馬関に陣取ることに　　　　　　　　　　なった。宮城ほか数名は小倉へ渡海した。昨夜、長府興膳と尚蔵が斬られ　　　　　　　　　　たようだ。　　６月　　１４日　宮城、赤根が夕方小倉から戻ってきた。　　６月　　１５日　久坂が京から帰り、来訪した。また今夜から上京するとのことである。先日　　　　　　　　　　京都で姉小路様を斬ったのは、薩摩の田中新兵衞と申す者であることを、　　　　　　　　　　今日、久坂から聞いた。波多野も、今日、来た。　　６月　　１６日　　夕方、大村の人である渡辺昇、千葉茂手木の両人が来訪した。高杉　　　　　　　　　　が応対し、奇兵隊から５人が小倉に行く。ほどなく、小倉から３人が戻って　　　　　　　　　　来た。話し合ったうえ、またまた小倉へ差し遣わせた。田浦借用一条也。　　　　　　　　　　＊　田浦借用は、小倉藩の田浦を占領したということ。　　６月　　１７日　　大村の両人が出立し、帰省した。　　６月　　１８日　　萩から坂上忠助と秋良敦の助の両人が九州へのお使いとのことで来訪　　　　　　　　　　した。ところが、もともと偏屈な者なので高杉と意見があわず、両人は帰っ　　　　　　　　　　て行った。２２日、豊前に渡海した。　　６月　　２０日　　高杉は穂神と同道して前田台場へ行った。　　６月　　２１日　　長州藩、大阪から３０人ばかり到着した。　　６月　　２３日　　在番から奇兵隊にご用とのお達しがあった。お役目は、留守中、当分小林　　　　　　　　　　　熊二郎へ申しつけられた。　　　　　　　　　　　＊　幕末の豪商志士白石正一郎（中原雅夫）によると「清末藩竹崎在番か　　　　　　　　　　　　ら白石正一郎に対し、６月２３日、奇兵隊ご用を勤めよとのお達しがあ　　　　　　　　　　　　り、その代わり大年寄の役は小林熊二郎がつとめることになった。」　　６月　２４日　　　国司、高杉、波多野、山県、何某、正一郎、廉作が、前田の砲台へ行き、　　　　　　　　　　台場に加勢した。加勢したことで御酒をいただいた。前田が焼かれて被害を　　　　　　　　　　受けた百姓たちへ米・銀を遣わされた。奇兵隊の世話人である井石綱右衛　　　　　　　　　　門へ帯刀が許された。ならや源兵衛、徳本屋、山本孝兵衛などへ金２００疋　　　　　　　　　　を下された。　　　　　　　　　　　今夜から高杉が山口へ行き、赤根が田浦から帰ってきた。　　　　　　　　　　＊　赤根は、６月１６日に占領していた小倉藩の田浦から帰ってきた。　　６月　２５日　　夜に入り、惣奉行である国司殿から招請された。正一郎と廉作とで一緒に宿　　　　　　　　　　泊されている林へ行き、ご馳走になった。宮城、波多野、山県、蔵などはご　　　　　　　　　　相伴にあずかった。段々とお尋ねがあったので、私が気付いたことを申し上　　　　　　　　　　げた。富くじのことは、当分、よろしからずと申し述べた。　　６月　２８日　　今日、宮城が来て、富くじのことについて善悪を議論した。　　　　　　　　　　＊　幕末の豪商志士白石正一郎（中原雅夫）によると、このころ富くじを発　　　　　　　　　　　行して戦費をまかなおうという議論があり、正一郎は庶民の立場から賛成　　　　　　　　　　　しないという意見であった。　　６月　２９日　　高杉が山口から下関に帰ってきた。来月４日に御勅使が山口にお着きになる　　　　　　　　　　と承った。今日の昼、徳山藩の４人が来訪した。坂健之丞、松岡修作、山田　　　　　　　　　　小太郎、渡辺新三郎である。   　７月２日　　　　清末候が御出浦された。惣奉行である国司、宮城、高杉等が竹崎御殿に出頭し　　　　　　　た。長府より西蔵人太夫、熊野清右衛門、原田準二などが来て、正一郎を御前へ召　　　　　　　し寄せ御酒を頂戴した。御座の間へ召され御手ずから御酒を頂戴するようせつけら　　　　　　　れたのである。　　　　　　　＊　幕末の豪商志士白石正一郎（中原雅夫）によると「清末候」は清末藩主毛利元　　　　　　　　澄であり、正一郎の奔走が認められ、藩主の手から御酒をいただいた。　　　７月３日　　　　竹崎御殿へ出頭し、昼前、次のとおり通達された。　　　　　　　　（通達）「白石正一郎　　　　　　　　　　　　　右のもの、萩表よりご所望につき通達を申しつける。山口表へ罷り出　　　　　　　　　　　　るように。」　　　　　　　　　　　　この通達を、竹崎御殿において、在番の飯田驒蔵が申し渡した。すぐに退　　　　　　　出して高杉氏方を訪れた。明日、山口へ向けて出発するというので、じぶんも支度　　　　　　　をした。昼過ぎ、御殿から急に殿様に召し出された。正一郎と廉作とで一緒に罷り　　　　　　　出たところ、御二の間において、清末候から直々にお言葉をいただいた。　　　　　　　　勤王に尽くしていることは兼々、神妙に思っているとのお褒めのお言葉をいただ　　　　　　　いた。また、近日山口へ、大膳様（毛利敬親）からも召し出されていること、忠勤　　　　　　　に励めよと、直々に仰せられた。　　　　　　　　退出して帰宅した後、夕方になって久留米藩の４名が来訪した。池尻茂左衛門、　　　　　　　山本実、佐田素太郎、加藤常吉などである。久留米藩の４名へ国司より酒を出すよ　　　　　　　うにと言ってきたので、そのように取り計らった。　　　７月４日　　　大年宮（大歳神社）へ参詣した。それから支度して、母君が一の宮へ帰ると　　　　　　　いうので付き添った。尊大人に、山口から召し出されていることを申し上げたとこ　　　　　　　ろ、お喜びになった。それから出立した。　　　７月５日　　夕方、山口に着いた。夜５つ時、にわかにご用のお使いが来た。ご用所である　　　　　　　三文字屋に行く。中村誠一より次のとおり読み聞かされた。但し、黄色い紙はご用　　　　　　　の手紙である。　　　　　　　　　２人分のご扶持を与える。　　　　　　　　　扶持米は３石２斗であり、石高にして１７石とする。　　　　　　　　　白石正一郎は、かねてより尊皇攘夷の正義をわきまえ、心得、よろしくにつ　　　　　　　き、昨年の春、御用達を仰せつけられ、藩のご用に役立ってきた。なおまた、この　　　　　　　度、異国船を打ち払うにあたって昼夜心を配り苦労を掛けてきた。ついては、格別　　　　　　　の措置として、以前、通知したとおり、、お忍び扶持により三十人通として召し抱　　　　　　　え、譜代の家臣になるよう仰せつける。（但し、日付なし）　　　　　　　＊　中原雅夫「幕末の豪商志士　白石正一郎」によると、三十人通というのは、萩　　　　　　　　藩のお目見え以下の下級家臣。高杉晋作の推薦による破格の栄誉とのこと。　　　７月６日　　今朝、月代をしてご政務の座へ出勤した。三文字屋ほか、吉田栄太も昇進した　　　　　　　　ので、一同、出勤した。その後、飯田八郎左衛門の手引きにより名札をもって挨　　　　　　　　拶回りをした。　　　７月７日　　氷上山において、御勅使である正親町様とお目見えした。佐久間左兵衛が手引　　　　　　　　きし、取り計らってくれた。　　　７月９日　　萩において、御役家に挨拶回りに行く。証人である鬼武久兵衛が指図して、ど　　　　　　　　こに挨拶回りに行くかという書き付けをくれた。　　　７月１１日　帰宅した。　　　７月１２日　月代をして馬関出張中のお役人方へ挨拶回りに行く。なおまた、阿弥陀寺、極　　　　　　　　　楽寺に詰めている奇兵隊へも挨拶に行く。昨今、しきりに造作している。近日　　　　　　　　　中に御勅使様のための御旅館をご用意しているからだ。留守中に廉作が取り計　　　　　　　　　らった。　　　　　　　　　＊　阿弥陀寺は、平家一門の墓、耳なし芳一で有名。今の赤間神宮。　　　　　　　　　　　安徳天皇が祀られている。　　　７月１３日　今夜、田浦に詰めている奇兵隊士である原田熊二郎、松尾甲之進が訪ねてき　　　　　　　　　た。長崎行きの機密相談があるということなので１００両を貸し渡した。　　　７月１５日　御勅使様がご到着になった。今日はお疲れなので何もなかった。長府清末藩よ　　　　　　　　　り太夫を始め役人が来て台所が大混雑であった。　　　７月１６日　萩より前田翁が下関へ来て、酒場に着いた。今日、御本陣の亭主となっている　　　　　　　　白石廉作より御勅使様へカツオ１３本を献上した。４つ時、お目見えを仰せつけ　　　　　　　　られた。尊大人、母君、正一郎、廉作の４人である。昼過ぎより、御船にて、壇　　　　　　　　ノ浦、杉ヶ谷、前田、それぞれ台場を御巡覧された。御本船に、正一郎と廉作が　　　　　　　　乗り組むよう仰せつけられた。阿弥陀寺よりお上がりになり、それから御馬で移　　　　　　　　動、それから、またまた御本船にて田浦へお出でになった。廉作が御本船へお供　　　　　　　　し、正一郎は前田から帰宅した。夜の４つ時、御船が田浦より帰ってきた。　　　７月１７日　高杉、宮城、波多野、小田村、佐久間、糸賀などが来て、小倉藩の５罪を書い　　　　　　　　　た書き付けが出来たというので、一見した。　　　７月１８日　御勅使様が引嶋台場、大里・久留米の台場を御覧になった。正一郎と廉作は御　　　　　　　　　本船にお供した。夜５つ時、ご帰館になった。　　　７月１９日　今夜、御親兵のうち、水戸の人が２人、正親町様へ提議した。小倉藩のことで　　　　　　　　　ある。議論の終わり頃、奇兵隊から３０人ほどが来て、一挙に及ぼうとした　　　　　　　　　が、今夜の議論は終わりとして解散した。高杉は泊まった。小田村は夜に　　　　　　　　　なって山口に帰った。　　　　　　　　　＊　中原雅夫「幕末の豪商志士　白石正一郎」によると、奇兵隊らは小倉藩の　　　　　　　　　　態度をけしからぬとして「小倉五罪」を列挙し、ただちに小倉討伐の命令を　　　　　　　　　　受けたいと勅使に迫ったということである。　　　７月２０日　　正親町様より、先日献上したカツオの返礼として、扇子５本・盃２つ・八景　　　　　　　　　　の色紙などを下されると仰せつけられた。なおまた、山口よりご進物の菓子　　　　　　　　　　箱も頂戴した。今夜、原田熊五郎が来て、先日、１００両を貸し渡したうち　　　　　　　　　　の５８両３分を返済してきたので取り置いた。　　　７月２１日　　御勅使様が御発輿遊ばされた（帰って行った）。
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			<pubDate>Sun, 22 Sep 2019 21:03:41 +0900</pubDate>
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			<title>藤原義江記念館</title>
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			<description><![CDATA[
　春帆楼からつながる李鴻章道を歩いて行くと、途中に明治・大正期に建てられた洋館があります。これが、「藤原義江記念館」です。ちなみに、この記念館の庭園から、赤間神宮の紅石山・真木菊四郎と白石正一郎の奥都城にもつながります。　藤原義江さんというのは、「吾等のテナー」の愛称で親しまれたテノール歌手で、大正から昭和にかけて世界的に活躍しました。日本では藤原歌劇団を創設して、オペラを広めました。作家の古川薫先生の直木賞受賞作品である「漂泊者のアリア」で藤原義江さんが描かれています。　そして、藤原義江記念館は、イギリスのホーム・リンガー商会が建てた明治期の建物で、藤原義江のお父様が、リンガー商会の支配人（リード氏）だったことから、記念館とされています。下関市観光情報「楽しも」・藤原義江記念館　ワインや音楽好きの方は、記念館を訪れたときに、「藤原義江友の会」のことを、お問い合わせいただけると良いかもしれません。年に何度か、ワインと音楽を楽しむ会を開催していますから。　
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			<pubDate>Sat, 24 Jun 2017 16:56:00 +0900</pubDate>
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		<item>
			<title>プライバシーポリシー</title>
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			<description><![CDATA[
プライバシーポリシー　当事務所は、その保有する個人情報を適正に取り扱うため、以下のとおり個人情報保護方針を定め、個人情報保護に努めます。記一、個人情報の定義　　個人情報とは生存する個人に関する情報であって次のいずれかに該当するものをいいます。当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの。なお、「記述等」というのは、具体的には、文書、図画若しくは電磁的記録に記載され、若しくは記録され、又は音声、動作その他の方法を用いて表されたものをいいます。個人識別符号が含まれるもの二、個人情報の適切な収集、利用、提供　個人情報は、当職が取り扱う法律事務を遂行すること、当事務所からのご案内・ご連絡、当事務所が提供する法的サービス向上のための調査・研究、及びこれらに関連する目的で個人情報を取得し、この目的の範囲内で利用させていただきます。また、当事務所スタッフ又は採用希望者に関する個人情報は、採否及び労務管理の目的で取得し、この目的の範囲内で利用させていただきます。個人情報の管理にあたっては、情報の漏えい等が生じないように安全に管理します。収集した個人情報は、次の場合を除いては、ご本人の同意がない限り、第三者に提供又は開示することはしません。法令に基づく場合人の生命、身体又は財産の保護のために必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき公衆衛生の向上又は児童の健全な育成の推進のために特に必要がある場合であって、本人の同意を得ることが困難であるとき国の機関若しくは地方公共団休又はその委託を受けた者が法令の定める事務を遂行することに対して協力する必要がある場合であって、本人の同意を得ることにより当該事務の遂行に支障を及ぼすおそれがあるとき三、個人情報の管理・委託　当事務所は、職員等に個人情報を取リ扱わせるにあたっては、当該個人情報の安全管理が図られるように、当該職員等に対し監督を行います。当事務所は、個人情報の取り扱いを委託する場合には、委託を受けた者に対する必要かつ適切な監督を行います。四、匿名加工情報　匿名加工情報を作成・利用する場合には、特定の個人を識別することができる記述、個人識別符号等を削除し、その他、適切な措置を講じます。匿名加工情報を利用する場合は、法的問題点を抽出するのに必要な限度内で抽象化された事例として利用いたします。五、個人情報の安全管理措置　当事務所は、個人情報への不正アクセス、個人情報の漏えい、滅失、又は毀損等を予防し、かつ是正するため、安全対策に努めます。六、改善措置　当事務所は、個人情報の取り扱いに関する社会環境の変化に的確に対応するよう努めます。また、必要に応じて本方針につき、変更、修正、又は追加を行うなど、改善をするよう努めます。七、開示、訂正請求等への対応　当事務所が保有する個人情報について、開示、訂正、追加又は削除、利用停止等を希望される場合には末尾記載の窓口までお問い合わせください。当事務所は、個人情報取扱に関する苦情に対し、適切かつ迅速な処理に努めます。本個人情報保護方針の適用範囲は、当事務所内及び当事務所ウェブサイト内とします。当ウェブサイトからリンクの貼られている他のウェブサイトの個人情報の保護についての責任は負いかねますので、それぞれのウェブサイトの個人情報保謹方針をご確認ください。（窓口の表示）　　　　　　　　　　　　　　〒750-0009山口県下関市上田中町１丁目１３番２３号白石法律事務所電　話　　083-228-2650ＦＡＸ　　083-228-2651
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			<pubDate>Sat, 10 Jun 2017 18:43:46 +0900</pubDate>
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		<item>
			<title>子どもの刑事事件</title>
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			<description><![CDATA[
　最近、マスメディアを中心に、「少年犯罪にも厳罰を」という風潮が見られます。　でも、子どもは、安心できる環境のなかで、勉強だけでなく、社会のきまり等についての教育を受けて、はじめて、一人前の大人になるものです。　子どもが犯罪を犯してしまったということは、それまでの間に、きちんとした教育を受けることができなかったということです。　それなのに、犯罪を犯してしまった子どもを罰するだけでは、社会の大人が責任を果たしたことになりません。　少年法は、そのような考え方を基本に、子どもの再教育を目的にして成立した法律です。　頼りない「子ども時代」は、誰にでもあったはずです。　大人たちは、子どもが、そのような成長している最中の人だということを、はっきりと意識しながら、子どもの意見を聞き取り、どのようにすれば子どもの成長にとって最も望ましい結論を得ることができるのかを考えなければなりません。少年事件（少年の刑事事件）の着手金　　一般の事件　　　　　　３３万円　　裁判員裁判対象事件　　８８万円少年事件の報酬　　鑑別所不送致　　　　　　　　　４４万円　　保護観察　　　　　　　　　　　３３万円　　原則逆送事件で少年院送致　　　３３万円　　＊　逆送致された場合は、大人の刑事事件と同じことになります。
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			<pubDate>Thu, 3 Oct 2013 18:05:32 +0900</pubDate>
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