白石資朗法律事務所

白石正一郎日記現代語訳

はじめに

 よく聞かれるのですが、私は、白石正一郎から数えて、6代目の末裔です。父が「やしゃご(玄孫)」であり、私は「らいそん(来孫)」にあたります。直系ですが、祖父が次男なので、分家ということになります。
 下関市で、白石家文書を編纂していただいているので、少しづつ、時間をかけて、現代語訳(かなりラフな意訳)をしていきます。

 

幕末の日本。1853年にペリーが黒船をひきいて来日し、1857年には、アメリカ総領事ハリスは幕府に修好通商条約の締結を迫ります。
 鈴木重胤の影響を受けていた白石正一郎は、国学を学び、志士たちとの交流もあって、尊王攘夷思想の影響を受けていきます。

安政4(1857)年〜この年、西郷隆盛と会った。

安政4年(1857年)
9月12日 若州小浜藩行方(なめかた)仙三郎が、来訪した。筑前に住んでいる薩摩藩の竹内五
      百都の紹介状を持っていた。肥後の横井平四郎のところへ行って京都へ戻る途中であ
      り、泊めてほしいということだ。廉作がお相手した。15日まで滞留した。
     * 竹内五百都・・・葛城彦一。薩摩のお家騒動(お由良騒動)の影響で亡命中か。
     * 行方仙三郎・・・若狭小浜藩士。梅田雲浜の門人
     * 横井平四郎・・・横井小楠。このころは、肥後熊本で私塾を開き、実際に役立つ学
      問(実学)を教え、藩政改革の提案をした。
9月14日 薩摩の、工藤、北条、竹内、洋中の4人へ宛てて、長蔵が手紙を遣わした(長蔵が
      手紙を書き、使者を使って届けたという意味か)。長蔵は17日に下関(赤間関、以
      下同じ)へ帰ってきた。
     * 工藤、北条、竹内、洋中・・・お由良騒動の影響で亡命中か。
     * ご指摘をいただいて、一部、修正しました。
11月12日 工藤左門が来た。同夜、薩摩の西郷吉兵衛(隆盛)らが、工藤の紹介で来た。みな
      泊まり、翌日の13日夕方に、西郷らは船に乗って江戸へ行った。工藤は滞在し、
      16日筑紫に帰った。

11月19日 薩摩藩の板鼻俊蔵が来訪した。筑前の北条右門からの添え書きによると、江戸へ遊
      学するとのこと。翌20日、出立した。
     * 北条右門・・・西郷隆盛、月照、梅田雲浜らとともに国事に奔走。お由良騒動の
      影響で亡命中か。
12月 3日 萩根来の家来である松浦亀太郎が来訪した。画工とのこと。孝子節婦の肖像を
      写し取るとのこと。
     * 松浦亀太郎・・・画家。吉田松陰の唯一の肖像画を描いた

安政5(1858)年〜彗星が流れたこと、正一郎が怒ったこと

安政5年(1858年)
1月15日 白石廉作(正一郎の弟)が、薩摩へ出発した。
2月13日 筑前の工藤洋中、薩摩の井上弥八郎上下4人が来た。
2月18日 工藤はじめ、上下4人が、陸路を通って、岩国に行った。
2月26日 洋中が岩国より帰ってきて、滞在した。工藤と井上は、大阪へ行った。
2月26日 薩摩の苫船新役である高崎善兵衛が訪れた。工藤の親類とのこと。以前から、工藤
      が書き置いていた手紙を届けるために来た。今夜、夜更けに廉作が薩摩から帰ってき
      た。
       筑前の北条右門と一緒だった。
     * 苫船とは、「白石正一郎」(中原雅夫、三一書房)によると、薩摩が天下の形勢を
      国元に報告するため、港みなとにつないでいた船。
2月27日 北条、高崎と酒食をともにし談話した。北条、洋中は、滞在する。
2月28日 大坂の和田長兵衛より手紙が来た。2月15日に、アメリカが江戸へ登城の申し入
      れをしたようだ。
3月 2日 薩摩の毛利強兵衛が来訪した。北条、洋中とともに、酒食をともにする。毛利は、江
      戸へ行くとのこと。

3月 4日 北条、洋中は、筑前へ帰った。昨夜、春二郎が生まれた(廉作の子。廉作は、正一
      郎の弟)。洋中が名付け親になった。
3月 6日 廉作が芸州へ行った。
3月20日 工藤が井上方より帰ってきた。28日、筑前へ帰る。
4月 4日 工藤が来た。8日、筑前へ帰る。
4月18日 工藤が、又々、来た。薩摩の福永新兵衛を連れてきて、泊まった。
4月22日 福永は、大坂へ行った。
      21日に、筑前の町人、楠屋宗五郎が工藤を訪ねてきて、滞在した。5月3日、工藤
      が筑前へ帰り、宗五郎は三浦屋へ行った。
      * 楠屋宗五郎は博多呉服町の豪商。勤王家であり、西郷隆盛、平野国臣らと親
       交があった。
5月17日 江戸表では、異国船の打ち払いにお手当が出るそうだ。昨今、肥前、筑前はじめ、
      九州への士飛脚の通行が多いと聞く。
6月12日 苫船新役の高崎が、相談のため、来訪した。明石屋積みとり分の藍玉を、百金出
      して、引き受けてくれないかとのこと。百金を45日以内に調達できるとお答えし
      た。

6月14日 明石屋のことで、仁牟礼佐兵衛、浜田八太郎の両人を、高崎が連れてきた。
6月23日 藍玉のことについて、仁牟礼を連れて、萩へ行く。
8月 7日 夜、萩にて乗船。仙崎をとおり、西市の中野半左衛門方へ行き、二晩、宿泊した。
      10日に、帰宅。薩摩の藍玉のことは、完了した。
8月16日 中野半左衛門から、産物の手本類(カタログ?)を送ってきた。
8月19日 薩摩の仁牟礼佐兵衛が薩摩へ帰った。手本類を渡した。
8月31日 夜半から、高崎善兵衛と一緒に西市へ行き、翌昼、中野方へ到着。
      9月2日夜に入り、帰宅した。このごろ、夜ごと、北の方にあたり白い尾をひいた彗
      星があらわれる。このような天変地妖があらわれるのは、幕府のご政道が悪いせい
      だと、人々は言い合っている。
9月14日 薩摩へ向かうため、夜半より、上下三人で、門司の大里へ行く。16日に、筑前
     下臼井村の工藤を訪ねる。それから、工藤と一緒に博多へ行って泊まる。翌17日
     工藤が太宰府まで送ってきてくれて、泉屋で、別れの盃を交わした。
9月19日 肥後の山鹿で泊まった。今夜遅く、中野半左衛門の名代である中川源八郎
      が追いついてきた。
9月22日 薩摩の阿久根宿で、出羽庄内藩の池田譲輔という者と会った。7、8年前に出国

      し、それ以来、あちこち旅してきたとのこと。儒学者である。33〜34歳くらいで
      肥えており、気品がある。
9月25日 鹿児島到着。仁牟礼と浜田の両名が、入口まで迎えに出てきてくれた。
11月14日 鹿児島を出立する。今日の夕方、西田町で、野本安右衛門が別れの席を設け
      てくれて、別盃をかわした。ひどく酔ったので、夜中、駕篭で、伊集院まで帰った。
      薩摩滞在中、いろいろの困難があり、筆舌に尽くし難い。仁牟礼や明石録兵衛
      などの大馬鹿者には、困ったものだ。かの地の人情は、実に恐るべし。そのうえ、中
      野の名代である中川源八郎などのような、ただ、利に走るだけで、少しも、薩長両
      国のためにはならない悪人ばかりで、私が滞在した50日あまりの間、一日も心を
      安らげることができた日はなかった。なお、帰宅後、中野半左衛門と、追々、付き
      合ってきたが、同じような大悪人で、今に至るまで、大造の存亡になっていることも
      ひとえに、半左衛門や仁牟礼などのせいだ。あまりに、残念なことなので、この注
      を入れ置くものである。
11月30日 帰宅
12月 1日 薩摩の高崎喜兵衛が訪れ、江戸へ行った。
12月 8日 竹崎の目明かし仁作が来た。京都の忍向という僧(月照)のことで、京都の

      目明かし中座甚介の聞き込みを手伝っているようだ。問題なくおさまり、品物を
      差し遣わした。
12月 9日 中座甚介が会いにきた。勝之介と、下関の目明かしの松屋久吉や、仁作と
     一緒に来た。
     甚介が、博多帯をくれ、こちらは、甚介らをもてなして、品物を渡した。無事におさ
     まったので、安心した。
12月12日 筑前に亡命中の平野次郎が訪れ、泊まった。
     * 平野次郎(国臣)。福岡藩士。月照の逃走に手を貸した(月照は、西郷隆
      盛と入水し西郷のみ助かった)ため、筑前に亡命中。
     * 平野次郎は、これ以前にも、何度も白石家を訪問していた。
12月13日 工藤が来て、24日に筑前へ帰った。
12月25日 板鼻俊蔵が江戸から帰りがけに立ち寄ったが、そのまま、薩摩へ帰った。

安政6(1859)年〜日々の営み

安政6年(1859年)
1月 5日 夜、薩摩の掘仲左衛門来て、泊まった。7日、江戸に向けて出発した。
      * 掘仲左衛門は、明治維新後、修史局に勤めた。
1月 7日 薩摩藩の有馬新七、桂民之進、米良喜之助、石見半兵衛の4名が、高崎と、誘い
      合わせて来た。
      * 有馬新七は、後日、寺田屋事件(薩摩藩の鎮撫使と衝突)で死亡。
      * 石見半兵衛は、中村半次郎の友人
1月 8日 堀氏が、まだ船が出ないということで、再び、来た。9日、薩摩の5人が出発した。
2月 2日 平野次郎が上方より下関に帰ってきて、泊まった。8日に筑前に戻り、15日に、
      また来て泊まった。
2月16日 筑前大島の大宮司である河野若狭之進が来訪。上京するとのこと。19日に、
      河野と平野が一緒に上方へ行った。
3月 2日 平野次郎が、宮崎司という変名で、備中連嶋より手紙を送ってきた。
3月 3日 苫船新役の浜田勇右衛門と高崎が、一緒に来た。
3月 5日 備中連嶋の三宅定太郎の名代である庄太郎が来た。また、雲州熊野神社
      の熊野小別火が来た。

      各々を誘って、谷山の福仙寺まで花見に行った。
      * 三宅定太郎は、尊王攘夷派の商人で、平野国臣とともに、長州と上方
        との交易等をした。
      * 福仙寺は、下関市豊前田町にある。
3月10日 宮崎司が備中から帰ってきた。
      三宅定太郎から贈り物が届いた。
      * 宮崎司は、平野国臣の変名か。
3月15日 宮崎と一緒に、廉作が筑前へ行った。熊野小別火は帰って行った。
3月16日 薩摩町人の瀬戸山直右エ門と、原田彦エ門が来た。
      瀬戸山が高崎から申し付けられた、萩の和薬種を盥定(調剤?)するためで
      ある。
3月28日 夜に入り、宮崎と廉作が、筑紫より下関に帰ってきた。
4月 5日 高崎と一緒に、筑前下臼井村の工藤に会いに行った。高崎は、そのまま薩摩
      へ帰った。
        筑前の石炭が一条なので、焚石会所と取り合いになった。
      * 焚石会所・・・ 福岡藩が設置。石炭の発掘・販売の取り締まりなど。

4月26日 薩摩の有馬春斉より手紙が届いた。宮崎のやっていることが入組んできた
      ようだ。
      * 有馬春斉・・・海江田信義(枢密顧問官、子爵)
5月 6日 薩摩侯(島津忠義)が馬関に宿泊した。
      島津豊後大夫(島津家筆頭家老)と会って話し、翌日、小倉でも、ゆる
      ゆると相対した。
5月 7日 朝早くから小倉へ行き、三原藤五郎(薩摩藩士)と会い、話し合った。
5月13日 薩摩の与倉猶二郎に、「常陸帯」(藤田東湖 著)2冊を与えた。
7月17日 宮崎司が、備中より帰ってきた。
7月21日 宮崎と一緒に、廉作が筑前へ行った。
7月29日 薩摩の益山東石が、有村春斉の紹介状を持って、やってきた。
8月 9日 廉作が、筑前より帰ってきた。
8月15日 春風楼にて、高崎と話し合った。今夜、宮崎が下関へ帰ってきた。
8月19日 高崎が来て話をした。今年の夏頃から、中野、仁牟礼などのマガモノの
     ために、交易がうまくいかなかったため、高崎翁も不首尾で、来訪が疎遠にな
     っていたが、今日から、また遊びにくるとのこと。

8月24日 宮崎を備中へ行かせた。
8月27日 徳山藩の本城清と江村彦之進が来た。九州へ行くとのことで、一両日
      滞在し、29日に出発した。
     * 本城清、江村彦之進は、兄弟。2人とも、徳山藩の尊王攘夷派で、
      徳山七士に数えられる。
9月11日 備中の井上孫三郎が帰ってきた。
9月22日 備中の三宅定太郎が来た。初対面で、しばらく滞在した。
10月10日 高崎善兵衛と廉作は、三宅が帰国の便船で、一緒に備中へ行った。
11月 8日 徳山藩の本城清と、江村彦之進が、九州より下関へ帰ってきて、宿
       泊した。
12月 5日 筑前より工藤が来た。滞在し、12月20日、筑前へ帰って行った。
12月15日 備中より、高崎、廉作、宮崎、井上が帰ってきた。
12月29日 夜中、浜門を叩いて、薩摩の堀仲左衛門が、高崎猪太郎、原田
      彦右衛門を召し連れてやってきた。これから薩摩に帰る途中で訪れた
      とのこと。但し、高崎善兵衛が当方に滞在しているため、尋ねてきたと
      のこと。薩摩との交易について、ひとすじに先立って動いていたのに、ざ

      ん訴があったために、当方が手を引いてしまったことを、気の毒に思って
      取り成してくださり、10中8、9は調うだろうと、丁寧に説明してくださっ
      た。晦日、各々、薩摩へ帰って行った。高崎善兵衛と宮崎司は滞在
      して越年する。

 

安政7(万延元、1860)年〜この年、桜田門外の変

安政7年(後、万延と改元、1860年)
2月12日 廉作が薩摩へ行った。備中の人、両人も同行した。
2月14日 宮崎と話し合った。当分滞在して、焼き物店を人にまかせるとのこと。
2月17日 薩摩の田中直之丞が来た。江戸での秘密のできごとを聞いた。金3円を用立
              てた。大急ぎで薩摩へ帰るというので、大里まで漁船でおくらせた。
     * 田中直之丞・・・田中謙介。寺田屋事件で、薩摩の鎮撫使と闘争し、その
                 後、藩命により切腹
     * 江戸での秘密のできごと・・・桜田門外の変の計画のこと
2月19日 高崎が、萩を出て、途中、西市に立ち寄ってから、下関に戻ってきた。
2月22日 同人が薩摩へ帰るにあたり、廉作に手紙を書いて行った。
2月26日 堀仲左衛門が来た。19日に国元を出立したとのことで、廉作と田中直之丞
              などが薩摩に着く前の出立だったらしい。翌27日、大阪へ行った。
2月29日 宮崎が筑前へ行った。
3月 2日 工藤が飛脚を使って知らせてきたところによると、製錬所産物の件で、早々に
              筑前へ来るようにとのことであった。
3月 5日 宮崎も、たびたび飛脚で、筑前へ来るように言ってきているので、直ちに大里へ

               渡り、今夜、富野に泊まり、翌日より筑前へ行く。
3月 7日 福岡に着いた。高橋屋勘六の家に泊まった。
      * 高橋屋勘六・・・白石家の常宿。高橋亭。
3月 8日 工藤と同道して、薩摩藩の御用人である吉永源八郎方へ行き、話し合った。
      ご馳走をいただいた。
3月 9日 宮崎の父や兄弟たちが、旅宿へ尋ねてきた。いろいろ、ご馳走になった。
3月10日 工藤の誘いを受けて、沢原与左衛門方へ行った。熊谷丈平や清水正平、入
              江勝四郎、大内佐内などと会った。おおいにもてなしを受けた。これらの者
             は、皆、製錬所産物係の役人たちである。
3月11日 製錬所へ、諸品見合わせに行った。
3月13日 役人の家(上野又蔵、大内左内、神屋宅之丞、入江勝四郎、三角某、清水
              正平、吉永源八郎、熊谷丈平、以上8家)を回った。
3月15日 戸田六郎、小田部龍右衛門、平山宇八郎などが旅宿へ尋ねてきた。各々、
             土産物をくれた。夜に入り、北条氏が、姫島から海を渡って、旅宿へ来た。
3月16日 高橋亭にて、工藤、北条の両人が別れの酒宴を開いてくれた。昼過ぎに
               出立した。宮崎と一緒に帰路に着く。2人とも駕籠にのった。

3月17日 下関に帰る。今日、新苫船役である岩城某が下関に来た。
      私が留守中のできごととして、6日、薩摩の田中直之丞が来て、先日の
             3円の金を返却し、手紙。高崎猪太郎からの手紙一通を残して行った。大
              久保から宮崎への手紙もあったので、これはすぐに宮崎に渡したとのこと。
              翌7日、田中は船で大阪へ向かったとのこと。
     * 大久保は、大久保一蔵(のちの利通)のこと。
3月18日 下関のうわさ話だが、江戸で先日騒動があったらしい。宮崎氏をミタラ
              ヒヤに遣わして、なにがあったのか確認したところ、井伊大老が桜田にて
              殺害にあったとのこと。水戸藩士17人がやったそうだ。翌19日、この
              ことを薩摩に知らせるため、手紙を数通出した。宮崎氏も、苫船中の馬氏
              に手紙を託した。
     * 宮崎氏・・・平野次郎のこと
     * ミタラヒヤ・・・「御手洗屋」という飛脚屋(下関市阿弥陀町伊東家)
     * 水戸藩士17人による桜田門外の変のこと。
     * 馬氏・・・薩摩川内の中馬廉四郎。
3月24日 薩摩候(島津忠義)の江戸登場は、延期になったと伺った。

3月27日 薩摩の田中直之丞が三浦屋にて、昨日、書き置いた手紙が、今日、届い
               た。「改名 田辺三八」とある。宮崎は、すぐに小倉に渡り、田中と
               会った。
     * 中原雅夫「白石正一郎」によると、田中直之丞は、「いったん、大阪
                 まで行ったが、桜田の変のことを知って、また引き返してきたのだろう。
                  」「改名も、幕府の追求を逃れるためであろう。」
閏3月7日 筑前福岡から廉作の手紙が届いた。薩摩から米を買い入れると言ってきた。
 同10日 備中人両人、薩摩から帰ってきた。福岡の廉作からの手紙を持ち帰ってき
              た。宮崎氏のことを言ってきた。
 同12日 嘉吉が、筑前より帰ってきて、宮崎のこと、なおまた、やかましく言われ
               てきたというので、今晩、宮崎を大里に行かせ、富野方に潜伏させてもらう
               よう、手配した。
 同13日 高崎翁と廉作が、黒崎舟にて帰ってきた。宮崎は、富野方に潜伏できなか
              ったとのことで、帰ってきた。そのため、春風楼に潜伏させてもらうよう手
              配した。夜に入り、筑前の鷹取養巴より手紙が来て、宮崎へ届けた。
 同15日 筑前の物産役人である入江勝四郎が来た。今夜、宮崎氏を、またまた春風

              楼に預け、廉作を連れて行った。同20日、入江は筑前へ帰った。
 同16日 薩摩の伊牟田正平が来た。関山糾と一緒の船で来たとのこと。翌日、関山
              を迎えに使いを送ったが、すぐに出帆してしまった。
 同22日 夜、宮崎が春風楼より帰ってきた
 同26日 高崎翁が、薩摩へ帰って行った。中馬廉四郎、宮城源七郎が来て、一緒
              に酒を飲んだ。昼過ぎ 目明かしの仁作が、筑前盗賊方の浅井大蔵ともう
              一人の目明かしも付き添って、平野次郎のことを尋ねに来た。
 同27日 朝、目明かしの仁作方に滞在していた筑前の目明かし、つなや勘右衛門
              が、手先の長二郎を連れて、平野次郎のこと、また細々と尋ねに来た。ほ
             どよく、話を聞いておいた。
4月 2日 廉作は、筑前へ行った。
4月11日 うわさによると、彦根家中の人が、馬関に入り込んでいるらしい。
      * 井伊大老は、彦根藩第15代藩主なので、桜田門外の変の加害者の
                    探索に来ている?
4月18日 新地会所の乃美氏と酒を飲んでいるときに、目明かしの仁作が尋ねて来
              た。「薩摩の田中直之丞のことで、京都の中座甚介より問い合わせがあっ

              た。下関の目明かし松屋久吉、榊屋仁作などへ人相書を送って頼んで来た
             。」とのこと。その書類を持って来て尋ねるので、「おっしゃる人のこと
     は一向に存じません」と答え、その書付は写しを取らせてもらった。
4月19日 目明かし仁作と、その手先である長二郎が、下関の目明かし手先や、
              博多の目明かしである、つなや勘右衛門などと一緒に来て、「備中より
              帰って来ているはずだ」といって、平野のことを、又々、尋ねるので、
              ほどよく聞いておいた。同日、薩摩藩の高崎翁へ手紙を出して、昨日
              の人相書きのこと、並びに、彦根家中の者が馬関へ入り込んでいると
              いう噂等を知らせた。夜に入り、廉作が筑前より帰って来た。
4月25日 筑前より、工藤氏が船で下関に来て、同28日、筑前へ帰った。
4月26日 硝子器開店し、450人(40〜50人?)の来店があった。
5月 8日 目明かし仁作が八百屋林蔵と来て筑前から届いた書類をもって平野の
             ことを又々、尋ねに来た。
5月12日 宮崎が薩摩へ行くというので、道中の費用として、金5円を渡した。
5月18日 肥後藩の上松巳八と、堤松左衛門の両人が来た。河上彦斎の添え書き
             を持って来た。翌19日に出立し、帰国した。

     * 上松巳八は、宮部鼎蔵の弟子
     * 堤松左衛門は、宮部鼎蔵の弟子。江戸で横井小楠を殺そうとしたが
                  果たせず、のちに、自刃。
     * 宮部鼎蔵は、吉田松陰と親交があり、8月18日政変後の七卿落ち
                  の際には、七卿に付き添った。池田屋事件にて自刃。
     * 河上彦斎(かわかみ げんさい)は、8月18日政変後、三条実美
                  の警護を務めた。また、佐久間象山を暗殺した。明治維新後、広沢
                  正臣暗殺等の嫌疑により斬首された。
5月28日 筑前高橋屋勘六が、宮崎の妾(お秀)を連れて来た。6月2日、勘六
              は帰っていった。
6月 7日 筑前の藤四郎が、宮島から帰って来た。
     * 藤四郎は、藤四郎茂親。生野義挙に加わった。 
6月18日 薩摩の高崎猪太郎より廉作へ、手紙が来た。
6月25日 宮崎が肥後から送って来た2通の手紙を、春風楼を経由して受け取っ
              た。同日、岡本作兵衛が、 日向延岡の産物下役である久助という者を
             連れて来た。

7月12日 薩摩の高崎氏より、4日に出した書状を受け取った。即日、こちらか
              らも書状を数通、入組苫役の岩城氏にことづけた。
7月13日 肥後熊本より、宮崎の手紙が2通、届いた。山形氏のところに潜伏し
              ていたが、町宿に移ったということを伝えて来た。
7月18日 肥後の宮崎へ、返事の手紙を送り出した。宛先は、藤井五兵衛宛とし
               た。
7月20日 日向の人である万屋久作が、今夜より、当家へ泊まっている。
7月26日 薩摩の税処(さいしょ)喜三衛門が来訪し、翌日、帰って行った。
      * 税処喜三衛門(税処 篤)は、平田篤胤門下。西郷隆盛、大久保
                    利通と親交。
8月 9日 薩摩の高崎善兵衛より、手紙が届いた。7月29日に出したもの。
8月11日 宮崎氏が肥後から帰って来た。翌12日、妾お秀へ、書面を持たせて
               筑前へ帰らせると聞いた。
     13日、お秀は、筑前へ帰った。
8月16日 米会所の場所はじめの翌日だったので、板敷きを払い、客が多い酒宴
               の最中に、目明かしの仁作、松屋久吉、八百屋林三などが訪れ、平野

               次郎のことを尋ねた。そこで、「この5、6日前、筑前相の島(沖の
               島)の漁船で来たが、すぐその船で出発した。一時ほどいて食事をし、
              旅費を貸してくれというので、1両2分貸した。なお、行李を2つあず
              かっている」と答えた。
     *「幕末の豪商志士白石正一郎(中原雅夫/ 三一書房)より。同書に
              よると、目明かしらが、具体的な情報を持っていたため、もっともらし
     く、具体的に答えたとの解説がある。
8月17日 廉作が、筑前の工藤氏のところへ行く。今日の昼過ぎ、筑前の盗賊方
     である宮園令助と山本駒太の両名が来て、平野のことを尋ねたので、凡そ
     3年前から懇意にしていることを話した。すると、両人が言うには、「今
     年の春、同役の者がやって来たときに、今後、平野次郎がお宅に来たとき
     は、引留めている間に、仁作方へお知らせ下さりたいとお頼み申し置いた
     のに、このたび、お知らせが無かったことは、平野次郎をお匿いになった
     ということではないか」等と恨み言を申し述べた。
      そこで、「ごもっともではございますが、これまで懇意にしている人物
     であり、悪人とも見えず、筑前様(福岡藩)より兼がね、お尋ねのあるの

     は、何故の罪を犯したのですかとお尋ねしました。ところが、平野は罪を
     犯した覚えは無いというので、この春、仁作を通じてご同役へ、いかなる
     罪人かとお尋ねしたのですが、どのような罪かもご存じなく、ただただ
    、取調べの必要があるからだとのことでしたので、同人が、久しぶりに来
     ているところを、わざわざ引留めて仁作へ知らせ、仁作よりお国へ注進
     に及ばせて、当家で召し捕らせることは、何とも義理が立ちませんし、
     薩摩の高崎より、以前から、平野のことを頼まれていたこともあったの
     で、頼まれたとおりにはできませんでした。」と答えた。あわせて、
     「お国において、様々の大罪があるものと、私が、承知すれば、言われ
     たとおりにいたしましょう。いったい、なんの罪のある人物なのです
     か。」と尋ねたところ、「そのことは、一切、存じていない。いかにも、
     義理が立たないというのはもっともなことであるけれども、今後も、こ
     のようなことがあったときに、お知らせいただけないのか」と聞くので、
    「そのとおりです。」と答えた。
      「それならば、平野の荷物である行李2つをお預かりしている分は、
    人をつかって取りに来させるが、そのときは、お渡しくださるよう」と頼

    むので、「それは、わかりました。」と答えた。ほどなく、両人は、帰っ
    て行った。もっとも、「下関に、あと4、5日は滞在する」と申し置いて
    行った。
8月20日 今夜、宮崎を春風楼へ潜居させた。
8月21日 清末在藩の、渡辺より呼び出しがあったので、行った。宮崎のことに
              ついてお尋ねがあったので、お答えし、「宮崎の罪は、どのような罪が
              あるのか」等と尋ねた。匿っているのではないかと疑って、福岡藩から
             清末藩に申し入れがあったようだ。今日の深夜、再び、宮崎をうちで引
             き取った。
8月22日 平野次郎より預かっていた行李2つを筑前盗賊方へ引き渡した。受け
             取りを一筆取っておくよう、在番の者から言われていたので、そのとお
             りに取りはからった。
8月28日 薩摩の高橋新八(村田新八)が平野を尋ねて来た。高崎猪太郎より
             添書を持参して来ていたので、茶室へ通して、宮崎に会わせた。
9月 1日 薩摩の高崎猪太郎より廉作へ手紙が届いた。
9月 2日 筑前の大内左内が大阪より来訪し、土産をくれた。

9月 4日 日向延岡へ飛脚の良吉を送り、19日に帰ってきた。
9月 5日 今夜より宮崎が2階に潜伏している。廉作は宮市(山口県防府市)
              に行くのをやめた。
9月 6日 薩摩の高崎猪太郎より廉作へ手紙が届いた。
9月21日 薩摩の高崎新八が来て、今夜泊まった。22日出立する。
9月21日 肥後川上から手紙が来た。江戸より仁牟田尚平より手紙が来た。
9月23日 水戸の老公(徳川斉昭)が、先月26日亡くなったと伺う。廉作
              は、米のことで、筑前の工藤のところへ行った。
9月28日 薩摩の税所喜三右エ門が大阪より来て、すぐに薩摩へ帰った。廉
              作が筑前で待ち、また、高橋新八が南肥で待っている等のことを知
              らせた。宮崎が遺していった肥後への書付を渡した。
10月20日 日向延岡より産物方である赤坂準蔵ら3名が来た。
11月 5日 肥後の木原楯太(熊本藩の国学者)より、平野次郎が届いたとの
               手紙が来た。
11月 6日 延岡の役人である赤坂が出立し、帰国した。
11月 9日 平野二郎の件で、最近、また調べが厳しくなってきて困るので、

               飛脚を筑前へ送り、廉作へ申し付けた。夕方、新地の目明かしで
              ある源三が来て、平野のことについて、なにかとヤカマシク言って
             きたけれども、「こちらとしては、その後、行方を存じませんと、
            筑前の盗賊方へ説明してください。」と伝えた。
11月13日 平野次郎のことで、町方役所の石田へ口述書を差し出した。
11月16日 廉作が筑前より帰ってきた。
11月19日 夜、突然、町方より呼び出しがあったので、出頭したところ、
             平野二郎の件で、筑前盗賊方がむずかしいと伺った。夜が更けてか
             ら、目明かしの仁作が来た。
12月13日 筑前より池野永太という者が、平野二郎のことで調べにきたので、
              応対した。

万延2(1861)年 薩摩の御用達となる

 1月15日  筑前盗賊方の池野永太が、平野のことで来た。
 2月 4日  薩摩の町田直五郎が来訪した。
 2月 5日  薩摩の橋口伝蔵が、来駕した。
 2月14日  川上作右衛門が来駕した。
 2月26日  肥後の堤末右衛門が、宮崎からの手紙を持ってきた。
 3月 1日  廉作が、久助、佐助と同じ船で日向延岡へ行く。
 3月14日  延岡の産物である、炭1200俵、松二間板600枚が届けられた。
 4月22日  廉作と佐助が、日向から帰ってきた。
 6月12日  薩摩の高崎猪太郎より手紙が来た。兼ねてから、懇願していた件について、何と
       か、可と仰せつかるという趣旨の内意を得たようだ。
 7月 5日  廉作が筑前から、堀、高崎猪太郎からの手紙を同封して送ってきた。吉事であ
       る。
 7月10日  廉作が筑前から下関へ帰ってきた。守益を同道してきた。
 8月11日  薩摩の高崎猪太郎から、吉事があったことを伝える手紙が来た。
 8月11日  川上より御用達を申しつかった。
 8月28日  廉作が薩摩へ行った。

 9月12日  堺より、赤尾清兵衛が来て、15日に大阪へ行った。
 9月13日  薩摩の高崎翁より手紙が来た。8月26日早々に薩摩の殿様から申しつかった。
         * 白石正一郎は、薩摩藩御用達の商人になった。
10月10日  薩摩の井上弥八郎、井上右近、上下5人が来た。12日に大阪へ向かった。
10月20日  夜に入り、薩摩の堀仲左右衛門(入来次郎と改名)が、急のご用で出てきたと
        のこと。薩摩のこと、何か承る。今夜、宿泊した。
11月 1日  春二郎が発熱。疱瘡にかかり、ついに11日、死去した。
11月 7日  薩摩の樺山三円が来駕した。江戸下りとのこと。京にて、井上弥八郎と会った
       とのこと。廉作が薩摩へ行ったこともご存じとのことである。当時の形勢を、何
       かと承まわった。樺山より、萩の前田翁宛ての手紙を預かり、24日に届けた。
11月27日  仁牟田尚平外2人が来て、翌日、出立した。金一両と、「玉のミはしら」を2
       冊貸し渡した(「玉のミはしら」は、平田篤胤著)。
12月 1日  夜に入り、薩摩より、下男の良吉が帰ってきた。後ほど、廉作も帰るはずだが、
       お客があったとのことで、良吉が一歩先に帰ってきた。廉作は、夜になっても帰
       らない。
12月 2日  昼前、大里船三艘にて、廉作が帰ってきた。森山新三、波江野休右衛門と

       同道してきた。金2万4500両を持ち帰ってきた。このうち、3000両は当家
       へ拝借したものであり、2万両は米を買い付けるための手当、1500両は、早船
       10艘の引当金である。
12月 5日 森山氏が薩摩へ帰った。波江野は滞在し、数日して薩摩へ帰った。

 

文久2(1862)年 寺田屋事件(薩摩藩士上意討ち)

1月5日   薩摩の大久保一蔵(利通)が訪ねてきた。上下4人で急に上京することになったと
       のこと。
1月6日   薩摩の波江野より急飛脚。米のことを伝えてきた。
1月11日  薩摩の波江野が下関に来た。
2月1日   肥後藩の松田十介が訪ねてきた。
2月2日   薩摩の大久保一蔵が、京都から戻ってきた。波江野と同行して大里まで行く。
2月4日   薩摩の柴山愛二郎と橋口荘介が訪ねてきて、一泊した。翌5日、船で上方へ行く。
2月10日  薩摩の町田直五郎が江戸より来訪した。金3円を貸した。
2月16日  久留米の牟田大介、川崎三郎が来訪した。両名とも、変名である。牟田の本名
       は渕上丹下、川崎の本名は角照三郎である。
2月17日  牟田は萩へ行く。川崎は小倉へ行く。河内介を待つためである。同日、久留米藩
       の大鳥井利兵衛親子が、上方へ行くということで、訪ねてきた。
2月18日  目明かしの仁作の世話で開業した池田某という医者が来た。久留米藩からの客
       はないのかと尋ねてくるまわしものと思われる。
2月20日  久留米藩の原道太、荒巻羊三郎両人が、平野次郎からの添え書きを持ってきた。
       昨日19日、大鳥井親子が潜伏先で召し捕られたとのこと。今日、駕籠にて久留米

       へ警護引き連れて帰る途中、黒崎にて大鳥井が割腹したと聞き、残念だ。このごろ
       は、久留米正義党のおよそ20人以上が出国している。俗論が大いに沸騰している
       と聞く。よって、萩へ行った牟田、小倉へ行った川崎などのことを心配して、
       早速、急飛脚で萩と小倉へ連絡する。小倉へ五平、萩へ嘉吉を差し遣わせた。
         もっとも、時節柄、手紙ではなく、両人とも口上にて申し遣わせた。
2月21日  久留米盗賊方が、清末藩に願い出たとのことで、在番の渡辺から、
       牟田と川崎の ことを尋ねられたが、ほどほどに述べておいた。目明仁作
       などの差図によって、久留米盗賊方に申し出たものと思われる。
2月23日  萩から、松浦亀太郎が訪ねてきた。変名は、松田和助という。久坂玄瑞からの書状
       を持参した。この節、この一条を聞き合いに来ることについて、久留米藩潜伏の2
       人に引き合わせ、話し合いが終わって、萩へ帰った。
2月26日  内回りの山本春平が来て、牟田と川崎のことを尋ねたので、あらましを述べておい
       た。
2月29日  夜に入り、薩摩より、森山新蔵、波江野休右衛門が、金子を持参した。米代の引き
       当てとのことである。森山より、町田直五郎の手紙と返却金3両を受け取った。
3月1日   萩から、松浦亀太郎が来た。

3月4日   萩から、土屋矢之助が来た。山本春平も一緒に来た。土屋は虚名家であると兼ねて
       から聞いているから、大切な話をしてはいけないと言い置いた。夜に入り、山本春
       平が、御世帯方の竹内庄兵衛が、私に会いたいというので、宿にしている大木方へ
       行ったところ、酒宴中に、杯を2、3杯傾け、それから別席でこの節の一件を尋ね
       られた。久留米藩藩士より内密に聞いた事件を述べ、両殿様とも、江戸におられる
       ので、1日も早くご帰国あそばされるべきであると申しおいたとのことである。
3月5日   竹内が下関に滞在し、前田翁に手紙を書いたとのこと。山本春平が持ち帰り、
       急に、一度、萩に帰ることになった。
3月6日   竹内が来訪した。このたびの薩摩の一件を説明したところ、大いに喜んだ。同日昼
       過ぎ、土屋矢之助が薩摩に来る事情そのほか、大体のところを申し聞かせておい
       た。江戸にて、内山万之助が切腹し、その書置きを持参していたので、見せても
       らった。今日、薩摩の森山氏に久留米藩の両名を引き合わす。
         * 内山万之助・・・ 水戸藩士。坂下門外の変に遅参して参加できなかった
          ため、長州藩士桂小五郎に事情を語った後、切腹した。
3月9日   今日の夕方、竹内は萩に帰った。
3月10日  山本春平、時山清之進が来て、この頃の事情を聞くので、申し聞かせた。

3月11日  中村文之進は、小門へ遊びに行くと見せかけて、船を白石家浜門下につけ、私を
                 船に乗せて、この度の様子を、いろいろと尋ねられ、談話した。
3月12日  夕方、土屋矢之介が来た。近日、周布政之助が下関を出るということだ。また、萩
                藩がおおいに奮っているとのことだ。
3月14日  新地会所用達を申し付けられたことを、竹崎町方役所にて告げられた。
3月14日(同日) 久坂玄瑞が来訪した。薩摩の森山へ引き合わすことを話している最中に、土
                         屋矢之介が来て、互いに長話をした。
3月15日  夕方、久坂が、土佐の吉村虎太郎と一緒に来た。吉村は、今夜泊まった。
3月16日  夕方、久坂が来て、今夜、泊まった。夜半ころ、薩摩から萩の栗原良蔵が帰ってき
                て、夜半、久坂を起こし、談話した。
3月17日  久坂が来て、薩摩の事情は、栗原より聞いたことと大体同じとのこと。久坂は、今
                 日、昼夜通しで萩に帰った。
3月19日  薩摩の井上弥八郎が来た。和泉様が16日に出発するとのこと。また、大島(西郷
                 隆盛のこと)が21日か22日に薩摩に着くとの噂を聞いた。
      * 和泉様・・・島津久光
      * 島津久光が公武合体運動推進のため、薩摩を出立して京へ向かったときのこと。

3月20日  土屋矢之介が来訪。山田又助が、薩摩の人と連絡を取りたいということなので、
                 井上、森山と引き合わせた。また、丙辰丸の船長である松島剛三が来た。皆、一
                 同、座敷でゆるゆると談話した。最後には、阿弥陀寺の大早船一艘を借切りにし
                 て、松島が大阪へ行った。その便に、井上弥八郎上下、並びに、久留米藩の原荒
                 巻も一緒に乗って行った。
3月21日  薩摩の蒸気船が馬関に来た。会山九兵衛(高崎の親類ということだ)が森山を
                 訪ねて、蒸気船に乗り込んだ。夜に入り、豊後岡の藩の小河弥右衛門が来た。筑
                 前の平野次郎も来た。座敷にて、山田、森山、会山と、食事をだして会合した。岡
                 藩の赤座は大里へ行き、明日、大人数を迎え入れる手はずである。
3月22日  早暁、薩摩の大嶋三右衛門と村田新八が一緒に来た。入来、森山と、しばらく
                 のんびりしていた。平野次郎へ餞別として太刀一振り、金三円をあげた。岡藩へ別
                 れの盃を酌み交わした。人数は、およそ20人だった。
3月23日 高崎猪太郎へ餞別として金10両を与えた。同日、山田又介から手紙が来た。村田次
     郎三郎が下関に出てきたが、お目付役なので、庄一郎方へ行くのは難しい。なにとぞ、
     新地の梅屋まで来て欲しいとのことなので、梅屋へ行き、夜まで閑談した。
     * 村田次郎三郎・・・村田清風の子

3月24日 山田又介が、急に大阪へ行くこととなり、暇乞いに来た。土屋矢之介は急に萩に帰る
     ことになった。
   同日 肥後藩の轟武平が来た。廉作に会う。肥後藩も大いに奮い立っているとのことであ
     る。
3月25日 久坂玄瑞が来た。公然と上京するとのことで、暇乞いに来た。
3月26日 秋月藩の梅賀宮門来て廉作と会う。
3月27日 薩摩の小松帯刀が海路、下関へ来た。夜に入り、同藩の奈良原喜八郎、道嶋五兵衛の
     両名が来た。
     * 小松帯刀・・・薩摩藩家老
3月28日 早暁、廉作が黒崎から帰ってきた。薩摩藩の有馬新七、田中謙介(直之丞改名)が来
     た。
      さて、昼から正一郎、廉作、波江野が一緒に、下関に出てきた泉州様のお迎えとし
     て、宿とした大阪屋勝兵衛方で献上物の用意をした。内容は、白木の樽2つ、白木折り
     に生鯛2尾白木折りに昆布3把である。麻の裃を着用して御本陣のある佐甲へ行った。
     御用部屋の書役である四本助之丞の取り次ぎによって献上を済ませた。
      夜に入り、大久保氏へ、最近の事情を書き付けにして差し出した。これは、黒崎まで

     廉作出迎えのとき、申し聞かされたからである。
      御本陣より急な御用で、早船のうち1艘を3日で切櫓ましにして大阪まで出ていると
     申し聞かされる。あと7艘も3日切り室上りのご沙汰である。今日、樋屋彦兵衛の船が
     大失策で、大豆を船底に積み込んでいたのを、残らず上げさせてしまった。
      夕方、三雲藤一郎、大脇祐九郎が旅宿に来て、酒を酌み交わした。大脇棟臣と三雲春
     彦が歌一首を詠んでくれたが、省略する。
      今夜、高崎佐太郎、吉井仲介も、旅宿へ尋ねてきた。
     * 泉様・・・島津久光。状況にあたって、下関へ立ち寄ったときのこと。
3月末日 竹崎より知らせが来た。昨夜及び深夜に、有馬新七郎、高崎佐太郎が来て、森山新五左
    衛門その他4人が国元から亡命すると、密かに知らせに来たということだ。高崎猪太郎か
    ら、菊油、橙皮油2瓶くれたとのことだ。山本春平へ、薩摩の武士5人が潜伏することは
    難しいと返答した。ところが、その5人が来次第、密かに上方へ行くからと言って頼って
    来た。今日の昼は、大久保一蔵が急の御用で上方行きの苫船に乗船して行った。堀平太左
    エ門が高山方より昨日やってきて、5人をこちらで潜伏させているのではないかと疑って
    いるということなので、決してそのようなことはないと返答した。俗吏には困ったもの
    だ。

4月1日 四つ半ころ、ご乗船。ご門前にて、御供目付の山口彦五郎より当所御用達として、両名
    の名前が披露された。朝の間、廉作と波江野が大阪へ向かうようにとのお沙汰があったが
    にわかに、お差し止めのお沙汰があった。吉井仲介より、在筑の工藤北条へ書状を託され
    た。夕方、正一郎が帰宅し、夜に入り筑前より工藤左門が来着した。吉井の書状を渡す。
4月2日 萩より土屋が来訪した。今日、工藤とゆっくり談話した。天気次第で大阪へ行くことを
    決めた。
4月3日 筑前橋や平右エ門が来た。肥後藩を夜白通行し、38人が浦賀へ行くとのことである
     人足150人、馬48匹先触れに参るとのことである。早速会所内を回りタニムラへ知らせ
    をつかわせた。今日秋月も、急に船で大阪へ行った。 
4月4日 秋月が船で伊崎へ帰った。秋月藩の時枝左内という者が来訪し、廉作が応対した。この
    ごろの事情を尋ねられたが、なにもないと返答した。
  同日 薩摩がお召しの船が、我が家の下へ廻ってきた。
4月6日 秋月の船が出帆した。薩摩の船も出帆して薩摩へ帰った。
4月7日 山本春平が下関へ出てきた。京より、周布政之介、長井雅楽の考えなどによって、萩の
    意見が2派に分かれ、混乱しているようであるという手紙を、山本が持ってきた。
           * 前年にあたる文久元年(1861年)、長井雅楽が開国論を唱え「航海遠略策」を藩

     主に建白した。この長井雅楽路線と、尊皇攘夷路線とが対立した。
4月9日 工藤左門が大阪へ向かって出帆することになり、別れの盃を交わした。
4月13日 今夜、岡藩の後藤喜左エ門というものが来て、廉作が応対した。
4月14日 また、後藤喜左エ門が来て、正一郎が応対した。なにかと尋ねられたけれども、答え
     なかった。但し、先日、宮崎司が連れてきた飯田槌兵衛が来て、その日のうちに出帆し
     たこと、およそ、14、5人であったことは教えた。
4月17日 土佐の人が3人来た。北山登、大野武八郎、安藤勇介というが、それぞれ偽名とのこ
     とである。最近の様子を尋ねられたので、知っていることのあらましを教えた。
4月20日 徳山藩の江村彦之進が来て宿泊し、23日に帰省した。
4月25日 大阪から手紙が来た。京の所司代屋敷へ浪人が30人ばかり乱入したため、東町奉行
     が切腹したそうだ。夜に入り、萩から土屋が下関へ出てきて、京都のできごとを知らせ
     た。
4月27日 筑前候が馬関より海を渡って、筑前に帰った。目明かしの仁作が来た。平野二郎が御
     供していて、ウントウ船を見よと言われて船に乗りいるところを召し捕るとのことであ
     る。
5月1日 土屋矢之介が来訪した。萩より飛脚が着いたとのことで、内々に京都でのできごとを知

    らせてくれた。また、大阪より波江野の家来である藤介が来て、工藤へ、内々で下った勅
    書の写しを届けてきた。
5月7日 長府なべやの七右エ門が、豊方の金談の扱いを取りはからってくれた。
5月8日 土屋矢之助より手紙が来て、江戸の様子を伝えてくれた。
5月9日 工藤より手紙が来た。4月26日に出したようだ。伏見で、薩摩の侍が奮闘して、即死
    が合計9人ばかりあったようだ。なお、鎮静するため、工藤も留め置かれているとのこと
    である。筑前の吉永源八郎へ知らせる。翌朝、菊三郎が出立するので、持たせた。伏見の
    ことは、萩の土屋へも知らせを遣わせた。
    * 4月23日、伏見の寺田屋にて、京都での決起を考えていた薩摩藩士9名を、島津久
     光の意向で決起を食い止めようとしたが、説得に応じず、上意討ちした事件があった。
     「寺田屋事件」は、この薩摩藩士上意討ちの事件と、後の坂本龍馬襲撃事件とがある。
5月22日 大阪より波江野の手紙が届いた。泉州様が、近日、江戸へ下向されるとのことである
     勅使である大原三位様ご一同とご一緒で、大変、混雑のようである。
5月24日 廉作が、若松の米を受け取る一件で、福岡へ行った。
5月27日 大阪から波江野の手紙が届いた。お買い上げの米の積み込みのことは、林休左エ門が
     担当になった。近日、一同が向かうとのことである。

6月13日 大阪より土屋矢之介の手紙が届いた。京の事情について詳細を伝えてきた。
6月15日 廉作が、庫之進と藤介を連れて、米船にて大阪へ行った。
6月16日 秋月藩の神木小介、来年の春から京都に滞在し、京都の事情を承ることになった。
6月26日 波江野が下関に着いた。林休左エ門、林金右エ門、川嶋政二郎など上下六人が滞在。
7月9日 薩摩のお買い入れ米について、神宮司蔵からの受取が、今日、はじまった。山本藤回船
    へ積み入れた。夜に、筑前より北条右門が来た。
7月10日 北条氏より刀一本を受け取った。廉作が、呼び子や某からもらったものである。
7月19日 廉作、庫之進が上方より帰ってきた。井上弥八郎が同船していた。
7月27日 苫船、堀平太左右エ門と争論した。
8月5日 今日も、堀から呼び出されて争論した。
8月11日 北条と井上が出帆して、上京した。
8月12日 清末の渡辺から内密の手紙が来た。返事に、上方の事情、嶋田左兵衛大尉が殺害に遭
     ったことを知らせた。
8月18日 嫁の千代がコレラにかかった。夜の四つ時に亡くなった。そのため、薩摩のお米受取
     方役人である林をはじめ、波江野、今晩より三浦屋へ行った。江戸の鈴木先生が来た。
     有馬菅道方へ差し遣わした。

     * 白石正一郎は、鈴木重胤に師事していた。
閏8月3日 薩摩の林休左エ門、廉作が、ともに今日から筑前へ行った。
     * 閏月で、もう一回、8月になる。
閏8月10日 鈴木先生から、別家平三郎のことをお取り扱いになるということなので、しょうゆ
      屋(有馬菅道)方まで行った。13日の夜平三郎と相対した。
       毎月13日、宗像宮にお祭奉仕すべきことを、鈴木先生より承った。
閏8月13日 松嶋剛三が来訪した。上方の事情を承った。
閏8月20日 鈴木先生が帰省するので、馬関まで送った。
閏8月27日 あみだくじ常見屋由兵衛へ長府米切手500石買取注文した。80両を渡した。
9月2日  大阪の波江野より手紙が届いた。三郎(島津久光)様が兵庫から蒸気船にお乗りにな
     ったとのこと。また、本間精一郎、宇郷玄蕃を殺害して首をさらしたとのこと。薩摩の
     蒸気船は、今夕、通行下る。
9月6日  徳山から遠藤貞一が来て事情を問い合わせ、今夜、泊まった。
9月10日 林休左エ門、廉作、波江野が大阪へ上がった。
9月19日 大庭入来が来た。長府より事情の問い合わせである。
9月21日 西太郎次郎が、大庭と同じ目的で来たので、大庭へ説明したことを答えた。

9月22日 薩摩の田中新兵衞が来た。19日に大阪を出帆したとのことである。廉作からの手紙
     が届けられた。京都で起こったことについて、田中より詳しく伺った。薩長土三藩より
     京都の朝廷への願文の写しと、目明かし文吉誅戮の罪状など、また、鈴木先生が、状屋
     何某を工藤へ引き合わせになったことの評判が悪いとのことである。田中は一泊して、
     翌日、薩摩へ帰った。
9月23日 京都の二ケ条を、新地本締め及び長府大庭へ知らせた。
9月24日 筑前宗像中津宮の大宮司である河野近江が来た。
9月26日 土屋矢之助から大阪を20日に出した廉作からの手紙を届けてきた。萩の直横目と御
     用所の手付けの両名が来て、数刻の間、話をした。明日から薩摩へ行くとのこと。土屋
     小七郎、吉田治右エ門である。
9月28日 薩摩の小松帯刀が上京する途中、馬関へ船を停泊させた。今晩出帆する。京都の北条
     から手紙が来た。村山斎介と改名。萩の土屋氏が来訪した。大阪にて宍戸九郎兵衛、前
     田孫右エ門は、私が、米で大きな損害を出して難渋しているのを、何かと相談をしてく
     れているということだ。いよいよ困ったら、どうかしてやろうと言ってくれたとのこ
     と。林杢へ伝言があるとのこと。土屋より承る。
     * 「幕末の豪商志士 白石正一郎」(中原雅夫、三一書房)によると、小倉屋(白石

      家)が「薩摩の米を買い入れるについて何か食い違いがあった。要するに値段のこと
      であろう」ということで、薩摩藩の宍戸や前田が「いよいよ困ったらどうかしてやろ
      うといってくれた」ということである。
10月10日 工藤氏が下ってきた。急の御用により薩摩へ戻るということである。私の長州様か
      らの拝借金について取り持ってくれるということである。
10月14日 徳山の遠藤貞一から手紙が来た。長井雅樂の建白書と弁駁署などが届いた。
10月16日 林休左エ門と廉作が大阪から下ってきた。
10月19日 土佐の谷守部(16歳くらい)、樋口真吉(40歳くらい)の両名が来た。九州か
      らの帰路ということだ。これから肥後へ行くということで、転法輪三条様の御書を持
      って行く。君側の藪作左エ門へ渡すということを伺った。そのほか、肥後をはじめ、
      柳川など九州大名のことをなにかと伺った。
      * 転法輪三条様・・・三条実万(実美の父)
10月20日 土屋矢之助の門人である竹下孝吉が、肥後から来た。そのわけは、岡藩の小河弥右
      エ門の一派が残らず厳重に罰せられたからだという。第1に違勅の罪にあたり、かつ
      岡藩藩主が出府のつもりで、この14日に駕籠を発したとのことである。当月25か
      26日ころには伏見に着くはずなので、そのとき、薩長土三藩より食い止めていただ

      きたく、小河などが赦免になるよう周旋をお願いしたいという。土屋からは、京都滞
      在中の長州藩士である前田、宍戸、北条へお願いに行くというので、なおまた、私か
      らも、京都滞在中の薩摩藩士である申し込んでほしいということである。そこで、こ
      のことを手紙に書いて封をし、林休左エ門への依頼状にして御手洗屋へ出した。今日
      薩摩から町田助十郎等数名が、来着した。
10月21日 町田介十郎から大久保の手紙を受け取った。お米積み下しの一件である。
10月25日 薩摩から田中新兵衛が登ってきた。森山新三の形見として、硯一面を送ってきた。
      森山新六郎からである。
10月26日 林休左エ門、金右エ門、高田など、大阪へ向けて出帆した。
    同日 薩摩より藤井良節、工藤左門より改名したとのことであるが、登ってきた。このご
      ろの私の難渋について、あらかた、大久保へも申し述べ、内々、殿様の耳にも入れて
      おくということである。
10月27日 京にいる萩の役人である前田氏へ差し出す願書を書き、これを渡すよう、藤井氏に
      頼んだ。2000両拝借のことである。藤井は出帆し、上京した。
11月9日  久留米藩の半田門吉、田嶋清太郎が来訪した。土屋矢之助も一緒に来た。大里から
      渡海原道太の添え書きが来る。この両人は上京した。

11月12日 久留米藩の園田、三津、二木が来て、宿泊した。
11月13日 萩から山県小介、時山直八が来訪した。九州に行くとのことだ。土屋のことを尋ね
      ると、1両日前に萩に戻ったと聞いた。久留米藩の園田と引き合わせた。
      * 山県小介・・・後の、山県有朋
11月14日 またまた、山県と時山が来た。昼前から小倉に渡海した。最近は、小倉藩が2つに
      も3つにも分かれて混乱していると聞いた。嶋村と、啓次郎君と確執があるというこ
      とだ。今日、一の宮の縁談が調ったことを、有馬が知らせてきた。
      * 嶋村・・・嶋村志津摩。小倉藩の重役
        啓次郎君・・・小倉藩主小笠原忠幹の弟
        一の宮・・・長門一宮住吉神社のこと
11月18日 薩摩藩の井上弥太郎の手紙が、小倉から届いた。岡藩の小河一列御救方、宮様が憤
      激したため、岡藩藩主が失敗したということだ。萩の役人が長府にて、白石の勤王は
      大いに評判がよいと言っていたことを、大庭より聞いた。
11月22日 一の宮から嫁入り。萩の小田村文助より手紙が来た。近日、来訪するとのこと。
11月24日 萩の土屋から手紙が届いた。波江野から11月13日に出した手紙が来た。
11月25日 薩摩の町田介十郎そのほか一同が、薩摩へ帰った。

11月27日 萩の野村和作が来訪し、すぐに上京した。今夜、正一郎も上京を決意した。
11月28日 小田村文助が来た。先日から、長府に滞在しているとのことだ。大庭と一緒に来た
       長府藩の粟屋族、井上丹下、磯谷謙三、井上藤三、重光盛之助等が来た。かねて約
      束があってのことである。座敷で酒宴となった。その最中、薩摩の加藤十兵衛が来て
      それぞれ一席設けた。
11月29日 山県小介が九州からの帰路、来訪した。岡藩まで行ってきたそうだ。一応、萩に帰
      り、すぐに上京すると言っていた。今夜、長府より金子四郎、有川常槌が来た。長府
      から亡命し、上京するということで一泊した。
12月1日  金子、有川を、三田尻まで船で送った。
12月4日  大庭より急飛脚が来た。長府から有志十余人が上京するので、5つ頃、当家へ来る
      とのこと。早船一艘16丁、用意しておくようにとのことだったので、用意した。
12月5日  一の宮より林郡平が来る。8つ前、井上、金子らが入ってきて別杯を交わし、出帆
      した。
12月10日 午後、正一郎が出帆し、大阪へ登る。召使いとして豊介を連れて行った。
12月15日 大阪に着き、尼太に登った。薩摩の林休左エ門も、波江野も、一昨日、蒸気船にて
      薩摩へ向かったとのことで、会えなかった。小松帯刀も同じ船で薩摩へ向かったそう

      だ。そして、すぐに長州屋敷へ行き竹内氏を訪ねたけれども、兵庫へ出張とのことで
      会えなかった。そこで、薩摩屋敷へ伺いたいと林金右エ門に問い合わせた。
12月16日 薩摩屋敷の役人へ挨拶に行った。夜に入り、30石船に乗り込んで高田喜兵衛を伏
      見まで送ってきた。
12月17日 早朝、伏見に着いた。薩摩御用達の北野屋甚吉を訪問した。高田より酒肴をご馳走
      になった。大黒寺に参拝した。薩摩の義士が、この4月23日に死亡し葬られた墓地
      に香花を手向け、大黒寺へ香典として200疋を差し出した。伏見にて、牛を一頭雇
      い、荷物を京都へ差し上らせるよう、豊介が手配した。私は、すぐに御所を拝礼し、
      東洞院四条上るにある藤井良節方へ宿泊した。藤井方で、小河弥右エ門その外3人、
      園田三津二にも会った。長州の殿様に願い出ている、金拝借のことについて、150
      0両が用意できていることを、藤井から伺った。
12月18日 支度して、前田翁を訪問した。懇願の次第を申し上げたところ、兵庫より竹内が戻
      ってきたら御評議を仰せつけられると伺った。それから帰路についた。長府方の出張
      所へ行き、大庭らに会った。
12月19日 小田村君から、ご馳走の案内があったと大庭が伝えに来た。四条先斗町にてご馳走
      になった。このとき、長府の三吉、原田、徳山、江村、大庭などが一緒に、客として

      もてなされた。
12月20日 薩摩の田中新兵衞が上京してきて、藤井方に宿泊した。
12月22日 藤井方へ、三宅定太郎が尋ねてきた。兵庫より、手代久兵衛が上京してきて、米の
      代金として90両を受け取った。
12月23日 御勅使がご帰京になった。姉小路様の御供である土佐の武市半平太と会いたかった
      ので、田中新兵衞と一緒に蹴上まで行き、弓矢にて、田中が用意した弁当を用いた。
      佐久間新兵衞に会い、一席、酒宴をもうけた。
12月24日 長州藩の野村和作が吉田栄太郎を訪ねてきて、酒を酌みかわした。
12月25日 薩摩の大久保、吉井が江戸へ向かうので、暇乞いに行った。長州藩の前田、竹内、
      佐久間、村田二郎三郎などへ、挨拶に行った。
12月26日 中村九郎に会った。
12月27日 結城筑後守を訪問した。田中新兵衞と一緒に行き、ご馳走になった。
12月28日 藤井方にて土佐の平井収二郎に会った。
12月29日 今日も、所々、挨拶に回った。夜に入り、祇園社に参詣した。

文久3(1863)年  激動

1月1日  辰の刻に、麻上下を着用して、近衛御殿へ行く。兼ねてから、藤井を通してお願いし
     てきた、御参内のお供である。薩摩藩士が11人に私を加えた12人である。御殿にて
     装束を身につけて、巳の刻にお供をして、御所へ行く参内殿という御殿の御階下まで行
     って、その土間に、薄ペリエン座などがあって、そこに居る雑掌何某5人が階段の2段
     目で御土器を頂戴した。しばらくして、供の休足所にて、めいめいが昼飯割子を食い、
     また、もとの階段の下に行って待つことおよそ一時、未の下の刻にお下がりになった。
     来た時と同じようにお供して帰る途中、準后御殿へお上がりになったが、まもなく、御
     帰殿あそばした。そのほか、一条様、二条様、鷹司様、九条様、左大将様(近衛様の若
     殿である)、月卿雲客あまた御参内になった。私の今日のお役目は、随身という役であ
     る。下にカバ色の絹の袍を着て、萌葱色の布の指貫を着、上に萌黄の袍を着、風折烏帽
     子をかぶり、太刀をはいて、殿下の御あとに雑掌の次に供奉し奉った。さて、近衛殿に
     帰って、御薄茶、御吸い物、御酒を、めいめいがいただき、盃、御肴、数の子、ゆばを
     台に乗せて、松と榊と二本立てた台は白木である。御吸い物膳は、白木の角切りをしい
     ている。御飯も頂戴し終えて、申の刻に藤井方へ帰った。茶碗は平たい茶碗である。蓋
     はない。みな、かわらけの蓋である。
1月6日  前田翁の宿屋へ行く。折から、竹中、中村、佐久間などが談話中で、座敷へ来るよう

     言われたので、行くと、酒をご馳走になった。私が薩摩藩へ滞在することが、諸生輩議
     論になっていると承った。このごろ、長州藩と薩摩藩との間に、少々、確執があるため
     だという。
1月7日  朝、大庭が宿を訪ねてきた。小田村が転居するというので心配してくれているようだ
     と大庭から聞いた。また、吉田栄太郎が訪ねてきて話をした。田中新兵衞、吉田栄太、
     私が同行して祇園社へ参詣した。帰路、長府の出役所に立ち寄ったところ、召使いの豊
     介が国元からの手紙を持ってきた。12月26日に出した手紙である。廉作が、榊や仁
     作と争論に及んだことで、お咎めがあったということで、仰天した。今日、清末の殿様
     が御上京されると、前田翁から伺った。
1月8日  朝、大庭が来た。廉作、一条、小田村、前田と話し合った。清末方へ申し遣わすべき
     でであると承った。今夜、木屋町三条小橋上る路地にある亀屋某方へ転宅した。このご
     ろ薩長で、少し、いわくがあるためである。
1月10日 久坂と会った。
1月11日 田中新兵衞と一緒に、豊後屋友七へ行く。久坂を訪ねていったが、外出中だったため
     会えなかった。夕方、久坂が訪ねてきた。田中も加えて一緒に飲んでいると、楢崎、
     野村も来た。

1月12日 宇和嶋候のよくない評判を書いた張り紙が貼ってあると聞いた。
     * 宇和嶋候・・・伊達宗城(むねなり)
1月13日 井伊家の願書写しを田中が持ってきたので、見た。
1月17日 金1500両貸し渡すとの書き付けをいただいた。
1月20日 夜に入り、久坂より、青門様よりくだされた重箱の配分が届けられた。
     * 青門様・・・青蓮院門跡
1月21日 塩鶴一羽、銘酒嶋一合を献上した。村田次郎三郎の取り計らいで、見送りのことも、
     明朝5つ半、お供揃えのため、お留守居部屋まで参るよう承った。
1月22日 四つ半ころ、大殿様が駕籠で出発したと伺った。支度して、参集したところ、延期
     になったとの風聞があるから、一応、宿に下がるよう時山直八より言われたので、引
     き取ったところ、夕方、急に出発されることになったので、上下を着用して瓦町のお
     屋敷境向側にいたところ、夕方、ご出発。名札を差し出したところ、御用人河内首令
     が取り次いでくれ、用が済んだので宿に帰った。
1月24日 在京の清末役人へ挨拶に行った。
1月27日 夕方、薩摩の山田孫一が来た。青蓮院宮様が、今日、朝廷より還俗するよう仰せ付
     けられたとのこと。一橋の取り持ちがあったそうだ。

1月28日 清末候が京都を出発し、帰国された。
2月1日  長府方のご馳走で嶋原へ行く。主客およそ2,30人。
2月3日  久坂が来て、田中に伝言する。関白鷹司殿下へ三藩より入込のこと、議奏からのお
     気づきにより入込はやめて、諸藩の有志が、誰であっても、申し上げたいことがあれ
     ば、毎日でも殿下が会ってくださるので、入込のことは取りやめということで決着し
     たことを、田中へ伝えておいてくれるようにとの伝言である。土佐の平井収二郎も同
     じ理由で入込はやめたとのことである。
2月7日  土佐の屋敷へ首の投げ込みがあったという評判を聞いた。
2月8日  大庭と一緒に大徳寺へ、長府様の旅館へ行った。かねてご案内いただいていた、大
     造のご馳走を仰せつけられた。袴地2反を頂戴した。国元より便りあり。廉作が、先
     月28日に帰宅し、謹慎はまだ解かず、2月8日に解くとのことである。
     * 長府様・・・毛利元周
2月9日  長州藩の野村和作、吉田栄太、澄川など4人が来訪した。宿で酒を酌み交わした。
     岡藩の広瀬友之丞も来て、一席もうけた。
2月13日 久坂の建白を徹底すると承った。ご朝議にて、一昨夜、議奏・伝奏をはじめ、公家
     方67人が、夜に入り、一橋の旅館へおいでになり、終夜、談合された。攘夷は4月

     20日を期限として、ご評決になったとのことである。
              * 久坂玄瑞ら長州藩の藩士と、長州藩と親しい公家の働きで攘夷を決行することが
      決まり、徳川慶喜も、4月20日を期限として攘夷を決行することを承諾した。
     * 一橋・・・徳川慶喜
2月22日 木屋町の旅館を引き払い、荷物を残さず藤井へ預け置いた。近日中に、伊勢参りに
     出発するからである。今日、村山から誘われ、梅の宮神社へ行った。
2月23日 伊勢参りに出発した。井上信濃が、召使いの豊介を連れて、一緒に来た。
2月26日 八つ時、孫福氏(宿泊先)に着いた。
2月27日 大御神楽の奉献料として7両2分を差し上げた。
2月28日 内宮様へ参詣した。帰って、孫福氏に、昨日、奉献した大御神楽が奏行し、楽人男
     女9人が仕舞にて、外宮様へ参った。
2月29日 伊勢を出立した。
2月晦日  月本から、伊賀越えをする。幕府が、上洛する道中の人を留めているからである。
3月3日  帰京藤井へ着く。御所へ、御闘鶏を拝見に参ったが、今年は京都に人出が多かった
     ため、中止になってしまったようだ。
3月4日  幕府が上洛する行列を見に、三条高倉辺へ行った。大原三位様は、先月25日にご

     剃髪されたと伺った。
              * 将軍家茂の上洛
3月7日  将軍が参内された。至って質朴の様子であった。
3月11日 加茂行幸を拝見に行った。雨天であった。
3月15日 芸州藩の3人が訪ねてきた。渡辺三哲、頼東三郎(ミキ太郎の甥という)、佐藤勘
     二郎の3名である。
3月16日 八ツ時、京都を出立した。五条へ出て高瀬舟へ乗り込み、下っていく。
3月17日 大阪に着いた。
3月18日 薩摩藩の人たちは黒崎への船に乗り込んだ。
3月26日 未明、馬関について帰宅した。
4月1日  毛利能州が惣奉行として下関を発つので、旅宿である新地林へ名札を差し出した。お
     供をする外出役の方々の宿へも同様にした。今日、昼過ぎ、楢崎八十槌が訪ねてきて、
     京都から中山忠光卿がご下向になるというので、座敷を掃除するなど、大忙しだった。
     夜になって山田卯右衛門が来た。
4月2日 侍従である中山忠光卿が、散歩していらっしゃった。宮城彦輔ほか2人がお供である。
     夜中八つ過ぎになって、中山忠光卿が、突然、長府へお出でになるというので、御太刀

     は、御座の間にお置きになったまま、正一郎の刀と廉作の短刀をお持ちあそばされた。
     * 宮城彦輔・・・馬関惣奉行使番、のちの奇兵隊士(用掛)。
4月8日  夕方、中山忠光卿が、再びいらっしゃった。お供は、宮城、小山寛平、山田、田中
     等であった。すぐさま、船宿の「いせ小」へ楢崎を呼びに遣いの者を行かせた。
4月9日  中山忠光卿はじめ、お供の方々一同が、すじが浜をご遊覧になるので、弁当を用意
     した。夜に入り、忠光卿のご激論をもてあました。明け方になって、また当家へお帰り
     あそばされた。
4月10日 忠光卿は、食事をおとりにならなかった。
4月11日 ようやく忠光卿のご機嫌が直った。
4月13日 萩より土屋矢之介が来た。
4月14日 夜に入り、中山忠光卿がご立腹になり、かけだしあそばされた。あとから宮城はじ
      め、楢崎、土屋などが追いかけていった。夜明け頃、当家にお戻りになった。
4月15日 中山忠光卿が長府へお出でになった。
4月17日 中山忠光卿が清末へお出でになり、夜になってお帰りあそばされた。
4月21日 新地に出張中の能登様の手元役である工藤半右衛門が呼びに来たので、まかり出た
      ところ、この度、異国船を打ち払うために1500人が出張してくるため陣屋の用意

      をしなければならないが、急には間に合わないので、新地の人家を明け渡させるよう
      にとの御内命を受けた。しかしながら、そのようなことをすれば、下々の者が非常に
      迷惑する。寺院といっても、当地には1つしかない。そこで、大坪の了円寺、伊崎の
      利慶寺と海晏寺をお借り上げすることになり、役人が見分した。あわせて、兵糧の炊
      き出しを、新地より遠方の寺院へ運ぶことは不便なので、伊崎町の寺2か所にお願
      いした。利慶寺は問題なかったが、海晏寺は折り合いがつかなかった。このことを清
      末藩へ報告し、清末藩から2寺へお達しになった。また、三蓮寺もお借上げになっ
      た。
4月25日 山口より吉留音之助が来た。常栄寺一条承った。
4月27日 元締めの手伝いをしている藤村が来た。突然、30人が出張することになったから、
      長泉寺を借りてほしいと申しつけられたので、そのように取りはからった。久坂玄瑞
      をはじめ、合計30人が下関に来た。
4月28日 長泉寺にて久坂とゆっくりと談話をした。夜に入り、久坂と7,8人が訪ねてきた
      ので、一緒に酒を飲んだ。また、長府より原田、粟屋、大庭が来たので、久坂と
      一席をもうけた。今夜は、みな泊まった。
4月29日 突然、また中山忠光卿がいらっしゃった。小山寛平が伝えに来て、長泉寺に出張し

      ている久坂ほかが、追々来て、中山様と面談した。
5月1日  中山卿をはじめとし、久坂ほか4,5人が引嶋(彦島)の台場のご見分をされた。萩
      から楢崎が下関に来て、1500両のお金を新地にて竹内より引き渡しを受けること
      を伺った。
5月2日  中山卿のご気分がすぐれない。昼前、能登様の手元役である工藤が来た。廉作が萩か
      ら帰ってきた。宮城が来た。
5月3日  竹内正兵衛が来て、中山卿にお伺いをたてていた。
5月4日  中山卿が、7、8人をお供につれて狐狩りに行かれた。昼過ぎ、お帰りになった。
       いつもの癇癪が起こっている。廉作と小山がご不興を被った。夕方よりご酒宴が
      あり、合計20人の有志が来た。水戸藩、伊予の大洲藩とも交流する。
5月5日  長泉寺に泊まっていた者たちが、先日、細江の光明寺へ転陣した。今日、中山卿と光
      明寺滞在の者どもが来た。合計30人の大酒宴になった。
5月6日  中山卿は、今日、また狐狩りにお出でになった。長府からご猟方が来た。獲物は狐一
      匹。光明寺へお持ちになり、召し上がった。
5月8日  萩会所の元締めよりお呼び出しがあった。1500両の貸付金について、昨夜お達し
      があったから、証文を作って受け取りに来るようにとのことであった。帰路、竹内氏

      の旅宿に立ち寄り、貸付金のお礼を申し上げた。今日の八つ時より、突然、中山卿が
      九州へ渡海され、久留米へお出かけになった。お供は萩より4人、肥後2人、上下8
      人である。
5月9日  竹内君が萩に帰るとのことで立ち寄られ、酒を差し出す。肴をたくさんくれた。国司
      信濃、杉森駿州、宮城、山田鶴太郎らと、それぞれ一席もうけた。
5月10日 昼過ぎ、外国船が田浦沖へ?船した。外国船に間違いないことが、夕方になってわかっ
      た。そこで、すぐさま支度して、まず竹崎の在番役所へ行った。
       すると、在番の役人は、「届出をするのに自ら罷り出ず、目明かしどもを差し出
      し、しかも目明かしどもだけが心配している。大年寄りが、このようなときに役目を
      おろそかにしている。どうせ予を新役とあなどっているのに違いない。在番は飯田弾
      蔵である。だいたい、地下の者が大年寄りを大切にして殿様を馬鹿にするなど言語道
     断である」とご立腹であった。察するところ、清末への申出がうまくいっておらず、自
     分の立場を心配しているのだろうと思われる。おかしな馬鹿者である。この役人が言っ
     た言葉に、「お役を差し置いて自分の仕事だけをするのであれば退役願いを差し出せ。
     今すぐでも取り次いでやる。」というものもあった。あまりの大馬鹿者で、実にあきれ
     果てた奴である。早速、その場で退役願いを申し出ようかと考えたけれども、既に去年

     の冬、自分が留守の間の廉作の一件もあったことであり、兄弟ともにお上を侮るなどと
     いう悪評を受けても面倒と考え直し、まずは堪忍して、穏便に黙って役所にいた。
      しばらくして、その役人の心も和らいだころかなと思って、「下関へ問い合わせに行
     きましょうか」と申し出た。すると、その役人は大いに喜んだ様子で、その役人が言う
     には「その外国船は、ご公儀の添え書を持ってきているという風聞である。そうであれ
     ば、新地に出張してきている能登殿は打ち払いをやめるであろう。一方、光明寺へ出張
     してきている面々は、言ってみれば浪人風の者たちで、打ち払いを決定すべきかを光明寺
     へは尋ねないほうがいい」との指図であった。
      まことに、大因循、大馬鹿者で、時勢の形成に暗く、ただただ自分の在番役を大切に
     守ることばかりを考えて、人を見ることが暗昧な奴だ。このような者が下役を勤めてい
     ては困ったことである。そうはいっても、直ちにほかに良い方法もない。
      まずは、自分さえこらえればいいことと考え、「畏まりました」と答えて、早速、手
     先の者両名を召し連れて、飛ぶように亀山台に登り見た。すると、大砲を並べ、およそ
     14、15人が静まっていたので、尋ねたところ、「惣奉行の迫田伊勢の介からの指図
     があり次第、打ち払うことになる」と答えがあった。これはおもしろいと喜び、それか
     ら道崎の渡場へ出向いて、望見しようとしたが、暗い夜のことで船は見えなかった。

      そのとき、道崎からおよそ40〜50人が乗り込んだ船が一艘出てきた。これは、光
     明寺滞在の者たちであった。庚辰丸へ行くとのことである。それから長府本陣の引接寺
     へ行った。
      私が報告して指示を仰ぐと、「迫田へ伺ったうえで返答する」と言われてしばらく待
     たされた後、財満小太郎が出てきて「向地にいる。外国船であれば打ち払う。もっと
     も、遠くて玉が届かなければ無駄になるので大砲は撃たない。」という。
      私から、「幕府の書簡を持ってきているとのことであるが、それでも打ち払うという
     ことでいいか」と尋ねたところ、また奥へ行って伺いをたて、「たとえ幕府の書簡を
     持っていたとしても、5月10日を期限とする御沙汰であって、それが取り消されてい
     ないので、打ち払うことに決まった」との返答を承った。
      私は、勇み進んで、また飛ぶように竹崎の在番役所に戻って報告した。在番役はこれ
     を聞いて大いに喜び、しばらくして「亀山下より久坂などが蒸気船へ乗り込んだようであ
     るが、わからないか」と聞かれたので、「私がもう一度行って見てきましょう」という
     と、「それは大いに大儀である。」と言われたので、「手下を3,4人召し連れて行
     き、途中から返答はこの者どもに持ち帰らせましょう」と言い、「私は今夜は帰りませ
     ん。」と言って退去し、また飛ぶように壇ノ浦へ行った。

      途中、大砲が2,3発撃たれたようだとのことで、陪従の者は逃げ去ってしまったの
     で、私一人で手提灯を持ち、壇ノ浦上の台場へも行って見た。長府の方で、それぞれ大
     砲の支度をしている最中であった。さて、大砲およそ14〜15発庚辰丸から撃ち、ま
     た沖の方からも13〜14発撃ちだしたという。外国船からかと思っていたが、あとで
     聞いたところによると、癸亥丸から打ち出したものだということだった。外国船から
     は、今夜は一発も撃たなかった。庚辰丸と癸亥丸とで挟み打ちにしたようである。
      さて、まもなく庚辰丸へ行った久坂などの船が帰ってきたので、壇ノ浦にて、昨夜の
     戦闘の様子を聞いたところ「大砲が三発あたり、外国船は豊後をさして逃げていった」
     ということである。こうして、皆々、壇ノ浦から引き揚げた。
5月11日  今夜、宮城と久坂が、萩会所へ行き、能登殿と議論に及んだ。
5月12日  来島又兵衛、国司殿、松嶋剛蔵、久坂、宮城らが来た。新地から芸者3人を呼ん
       で、大酒宴になった。
5月14日  今日、本締所から1500両の拝借金を受け取った。今夜、宮城から「能洲様をお
       招きするから酒席を用意するように」と言われたので、用意した。能洲様は夕方に
       いらっしゃり、4つ頃にお帰りになった。芸者を5人呼んだ。
        久坂、来島、松嶋、福原清助、児玉少助、宮城正太郎、長沼千熊など11人が来

       た。
       * 福原清助・・・癸亥丸の艦長
5月16日  今日の昼、目明かしの榊や仁作方に呼び出された。これは、昨年の冬、私が上京中
       に廉作と喧嘩したことについて、取り持つ人がいて、仲直りする気持ちからであ
       り、大いにご馳走してもらった。ところが、そんなとき宿場から嘉吉がやってき
       て、急に会いたいというので会うことにした。光明寺に滞在している有志たちが目
       明かしの仁作を殺すと言っていると、土屋氏から伝え聞いて、内輪の者が大いに驚
       き、手を回し、救うためにかれこれのことをしているとのこと。そして、心配の
       末、竹崎の番所へ行って内談したようである。清末より召し捕り、入牢させる手は
       ずが入江直人に談示され、その取り計らいになった。仁作は無事、助命された。
5月17日  宮城氏、土屋からの内意により仁作の一件を尋ねてきたので、昨夜、清末から聞い
       たとおり召し捕られた話をした。これで済み、仁作の首がつながった。
        夕方、中山卿が久留米よりお帰りになり、久留米藩から5,6人の付き添いが来
       た。今夜、20人余りの来客に加えて、夜中、久坂と久留米藩の山田辰三郎、渕上
       郁太郎の3人は山口へ行く。
         今夜、豊前田にて京駒が殺害された。

       * 渕上郁太郎・・・池田屋事件に遭遇するが逃れ、その後、捕縛。許されて帰郷
         した後、幕府とのつながりを疑われて暗殺された。
       * 京駒・・・やくざ?
5月18日  山本孝兵衛がうちに出入りしている。井石が取り持った。
       * 井石・・・奇兵隊士
5月21日  東の白石家と何年か絶交していたが。今日、和睦が調った。
5月23日  フランス船が一艘通行したので砲撃し、皆々、出陣した。船の鞆の部分を撃ち、
       バッテラ船を流れ寄せ、そのほか船の木を数々流れ寄せさせた。フランス船からも
       三発、砲撃してきた。
       * 「フランスの船は東洋艦隊の報知艦キャンシャン号で、この際も向こうは何も
        知らずに通りかかった。何のための砲撃かきこうとして書記官がボートを下ろし
        て上陸しようとしたが、これ幸とねらい打ちをしたため彼は傷つき、水兵4人が
        死んだ」(中原雅夫「幕末の豪商志士 白石正一郎」より)
5月24日   国司太夫である土屋滝が久留米へ行く。昼過ぎ、杉徳輔も同行。今日、御作事の
       役人が来て、近日、若殿様(世嗣・毛利定広公)がお泊まりになるための旅館を用
       意するためである。今夜半、久留米藩の槙泉州(真木和泉守保臣)が来た。

5月25日   楠公祭を執り行った。中山忠光卿をはじめ、久坂、前田など御茶屋へ滞在してい
       る連中が来て大人数で酒宴になった。
5月26日   オランダ船が一艘、海峡に入ってきたので、永福寺台場から大砲を撃ち込んだ。
       庚辰丸と癸亥丸からも、そのほかのあちこちの台場からも砲撃し、オランダ船から
       も30発ほど撃ち返してきた。庚辰丸を貫通し佐甲の門内に弾丸が入ってきた。
       また、ボンベンを打ち出して商船にあたり米俵が少々、焼失した。亀山の台場にも
       前田の台場にも撃ち込んできた。されど、当方にけが人は一切なかった。オランダ
       船にはこちらからの砲撃が67発も命中し、破裂玉も船内に撃ち込んだため、オラ
       ンダ船の逃げ足が遅くなり、四つ時になって部崎の岬にたどり着いて逃げ去った。
        夕方、中山卿が前田台場へ転居された。
5月27日   明日、若殿様が到着されるとの沙汰があった。そのため来島氏より座敷掃除の指
       図など申し聞かされ大変だった。宿もそれぞれ手配した。
5月29日   昼の九つ時、若殿様が到着あそばされた。まもなく長府公も到着され、夕ご飯も
       召し上がらずに会議となった。ご家来からの指示で、夜の四つ時に夕食を差し上げ
       た。
5月31日  明け方にお目覚めになり、引嶋を巡見されるお支度をされる。そのうちに、清末

      公、中山卿がお出でになり、九つ時ころにバッテラで引嶋弟子松(いまの彦島弟子待
      町)へお出で遊ばされた。正一郎と廉作は、今朝、お目見えがあった。奥番頭の香川
      某からご披露があり、「兼々、勤王の志があること、ご満足に思し召す。今後も、
      いっそう力を尽くすように」とのお言葉を香川を通じていただいた。今日、若殿様よ
      りお供えの御酒を頂戴した。そのほかにもご進物用の御酒を21丁お買い上げになり
      2疋を中山卿へのご進物とし、またカツオ100本をお買い上げになった。

 

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